前回の記事では、広島出身者であること等、個人的なこととの繋がりといったあたりで、この映画の感想を述べましたが、今回は、純粋にこの映画の素晴らしさについて述べてみたいと思います。
まず、この映画が素晴らしいのは、ストレートに戦争を描いている映画ではなく、一人のごく普通の女性を中心とした市井の人々の日常を丁寧に描いていて、それ自体が十分に楽しめる作品であるということと、水彩画のようなタッチでそうした日常を描いている、どこかほんわかした作品でありながら、観ている内にその世界に引き込まれ、戦争の不条理さ、知らず知らずの内に戦争が日常生活に入り込んで来ることの恐ろしさが観る側にリアルに伝わって来るということです。
しかも、そうした戦争の不条理さ、悲惨さを描いている映画なのに、通常、その種の映画で感じられる押しつけがましさがまったく感じられないのは、もはや奇跡といえるかもしれません(そのあたりは、主人公の声を演じる能年玲奈改めのんの「演技力」に拠るところも大きいのかもしれませんが)。
ところで、この映画を観終わった時にまず思ったことは、この映画は、今の時代に生きる日本中、いえ世界中の人すべてが観るべき映画ではないかということでした。
まず、舞台は今から70年も前の戦争中の日本ですが、今も世界のあちこちで同じことが起きており、決して過去の出来事をなぞっただけの作品ではありません。
私自身、今朝のニュース番組で、「この世界の片隅に」とよく似た、空から大量の爆弾が投下される映像を観ました。
その下には、「この世界の片隅に」と同じく、ごく普通の生活を営む人々のつつましい暮らしがあるはずなのに、爆弾投下の映像を観ても、まるでゲームか映画の映像のように何も感じなくなっている、そんな自分に愕然とさせられます。
「この世界の片隅に」は、私たちにとって内なる想像力なるものがいかに大切かを気づかせてくれます。
しかし、私自身としては、そこからさらに思うことがありました。
実は、この作品で作者が最も伝えたいメッセージとは、私たち国民が今起きていることについて無関心でいることの恐ろしさ、愚かさなのではないかということです。
この映画では、ごく普通の平穏な日常の中に知らず知らずの内に戦争が入り込んで来て、生活が破壊される様が丁寧に描かれていますが、それが誰の目にも見えるようになるときは、否応なく戦争に巻き込まれ、大切なものが奪われ、もはや取り返しがつかなくなっています。
この映画の主人公は、終戦の玉音放送を聞き終わった後に、慟哭します。
「まだ戦えるのになぜ?」といったようなセリフでした。
このシーンで私が思ったのは、政府の言うことを鵜呑みにして、無知、無関心でいると、いつか、そうした状況に追い込まれてしまう、後になって悔やんでももう遅いのだということでした。
映画では最後に救いがあり、ホッと前向きな気持ちにさせてくれますが、周辺諸国との緊張を高め、集団的自衛権の行使を違憲ではないと強弁して軍事同盟関係を強化し、情報統制を強めようとする今の日本政府のスタンスを見るにつけ、現実の未来はそんな楽観的な結末ではないのではないかと思わざるを得ません。
また、トランプ政権の誕生に象徴されるように今の世界はどんどん内向きになっています。
しかしながら、偏狭なナショナリズムが台頭するということは、国際社会において自国の利益の追及が優先される傾向が強まるという事態を招くことは必定であり、大国が自国のエゴをぶつけ合うということが続けば、戦争の危機は容赦なく高まります。
ぶっちゃけていえば、トランプやプーチンのような人間が核ミサイルのボタンを押す権力を持ってしまっているわけです。
叡智をもって避けられるはずの戦争(殺し合い)はあるはずなのに、今の世界、日本は逆方向に突き進もうとしている、そんな気がしてなりません。
だから、立ち止って考えることの大切さを訴えてくれている、「この世界の片隅に」とはそんな映画なのではないかというのが、私の感想なのです。
もちろん、こうした捉え方は、私個人のもので、もしかすると作者の意図するところではないのかもしれません。
しかし、少なくとも、この映画は、観終わった後、私たちに、そこから何を考えるかを委ね、突きつけている、そんな作品なのだと思うのです。
またまた長くなったので、このお話はPART3に続きます。