今年に入り、関西に仕事で出かけたので、その足で、大阪の千里に住む叔父の見舞いに行って来ました。
叔父は、亡き母の兄でまもなく90歳になりますが、現在、癌を患っており、自宅にて療養中です。
会いに行くと、叔母や従姉弟ともども、亡き母の忘れ形見である私のことを大歓迎してくれるので、叔父を元気づけたいという気持ちもあり、関西方面に行く機会があれば、できるだけ叔父のところに顔を出すようにしています。
今回、仕事を終えて叔父の家に着いた時は、すでに午後9時近かったのですが、叔父と叔母は起きて待ってくれていました。
直近の検査の結果のことなどを聞いているうちに、叔父は、「わしは満州で一度死んだ人間やからなあ」というようなことを言い始めました。
叔父は、両親(私にとっては祖父母となります)、弟とともに満州に行き、一人だけ生き延びて日本に帰って来たというつらい体験をしています。
叔父も母も山口県の柳井という地方都市の出身なのですが、その当時、私の母と2つ下の妹だけが柳井に残り、ほかの家族は満州に渡ることになったのです。
母からは概略聞いていたことだったのですが、叔父にとっては本当に思い出したくない体験だとも聞いていたので、これまで叔父に直接そのことを尋ねたことは一度もありませんでした。
ただ、未だにボケてはいないものの、叔父は癌を患っており、まもなく90歳です。
なので、私としても、叔父がしっかりしているうちに、どこかでその話を聞いておきたいという思いをずっと持っていました。
今回、叔父が話のきっかけを作ってくれたので、思い切って、叔父に、満州で体験したことについて尋ねてみることにしたのです。
その日の叔父はわりと饒舌で、唐突に、「わしが乗って帰った船が何だか知ってるか?」と訊いて来ました。
見当もつかないので、「わからない。有名な船?」と訊き返したところ、叔父は、「宗谷や」と答えたのです。
「えっ、あの南極観測隊の?」と驚いて言うと、叔父は「そうや」と洒落だか何だかわからない返事をしました。
宗谷丸は、初代の南極観測船として有名な船です。
すぐにインターネットで調べてみたところ、確かに、元々が貨物船だった宗谷丸は、終戦後、引き揚げ船となっていて、中国から大勢の日本人を載せ、帰国させていることがわかりました。
叔父は、「わしが帰ったんは昭和21年の7月で、葫蘆島(ころとう)というところから宗谷に乗って、博多に上がったんや」と言いました。
そこで、さらに調べてみると、確かに、大連のさらに湾の奥に葫蘆島という町があり、そこから引き揚げ船が出ていることがわかりました。
ちなみに、漫画家の赤塚不二夫も、同じく葫蘆島から昭和21年6月に佐世保に上陸しています。
「どうや、わしの記憶は確かやろ」と叔父は何だか自慢げです。
「でも、なんで、叔父さんだけが?」
私は迷いながら、その質問をしました。
すると、叔父は、声のトーンを少し下げて、「わしは親父たちと一緒に天理の村におったんやが、そこの男らに結構殴られたりしたんで、嫌になって、友達と一緒に武順というところにおる叔父さんのところに行くことにしたんや」と言いました。
「ほら、ここに傷が残っとるだろう」「この傷はその時にやられたんや」と顎のあたりを示しながら話し続け、最後に、「だからわしだけが助かったんや」と悲しそうに首を振ったのです。
叔父が「天理の村」と言った言葉に心当たりがありました。
それは、生前の母が言っていたことだったからです。
かつて、高校野球で、天理高校の試合をテレビで見ていたときに、突然、母は、「今の選手には関係ないんじゃけど、私は天理はどうしても嫌なんよ」と言ったことがありました。
私が母にその理由を尋ねると、母は、「両親が天理教に言われて、満州に行くことになったから」と言いました。
いうまでもなく、満州は、日本が、溥儀を皇帝に立てて樹立した傀儡政権のもとで実質的に支配した中国の北東部の地域であり(その後、満州が国として承認されなかったために日本は国際連盟から脱退することになります)、その当時、日本国内では、満州に500万人の日本人を送り込もうという計画が立てられ、実際、数十万人の日本人が国策で満州に渡ったと言われています。
母の両親や叔父、そしてまだ幼い母の弟も一緒に満州に行き、叔父以外は満州でそのまま亡くなったのですから、終戦時、まだ15歳に過ぎなかった母にとっても、本当に耐えがたく、つらい記憶に違いありませんでした。
私の母は、滅多に他人のことを悪く言うことがない人で、その時も、感情をあらわにするという感じではありませんでしたが、両親と弟を死に追いやった天理教やその当時の日本政府に対して許せないという思いを抱えて生きてきたのだと思います。
長くなりそうなので、続きはまた書きたいと思います。