日馬富士による貴ノ岩に対する暴行事件の問題で、相撲界が大きく揺れています。
何となくうやむやになった八百長問題や、過去に何度もあった暴行事件のことなど、相撲界の体質が旧態依然のところがあるのではないかという批判については頷けるところもあり、相撲協会が公益法人であるということ等も含め、見直されるべき点が多々あるように思いますが、今回の問題については、当初から、報道のされ方も含め、非常な違和感を覚えておりました。
まだまだ情報が錯綜しているので、暴行の中身がどうだったかとか、暴行の背景、動機といったようなこと、あるいは日馬富士に対してどのような処分がなされるべきかといったようなことについては、現時点では何ともいえないところがあります(と書いていたら、本人が引退の意思を固めたとの報道が流れていますが)。
ただ、職業柄、あれっと感じられるような部分もあるので、今日はそうしたことに絞ってちょっと取り上げてみます。
あれっと思ったのが何かというと、それは医師が書いた診断書の問題です。
すでにあちこちで取り上げられているように「頭蓋底骨折疑い」「髄液漏れ疑い」の所見については、書いた医師によれば、少なくとも確定診断ではないようですし、現時点でははっきりしないとこもありますが、どうやら、そうした疾病はない可能性の方が高そうです。
ただ、当初のメディアの取り上げ方を見ていると、ビール瓶云々もそうですが、どうも診断書の「頭蓋底骨折」「髄液漏れ」の記載が非常にインパクトがあって、日馬富士の行為がいかに悪質なものであったかが強調されていたように感じました。
しかし、その時点から、この「頭蓋底骨折」「髄液漏れ」はどうも怪しいとの印象が強くあったのです。
それは、事件後、貴ノ岩が巡業や稽古に参加していたこととのギャップということもあるし、この2つの疾病の後ろについている「疑い」という記載が引っかかっていたからです。
そもそも、この2つの疾病名は、最初の診断書になく、事件から2週間も経って書かれた診断書で突然出て来ているのですが、精査した結果、このような疾病が見つかるということ自体はなくもないと思うので、それはいいとしても、なぜこの段階で「疑い」なのかという疑問が生じたのです。
「頭蓋底骨折」であれ「髄液漏れ」であれ、もしそのような疾病が疑われた場合には、逆にきちんと精査するはずですので、2週間も経って疑いという記載にとどまっていることはやや不自然な印象を拭えないわけです(また、疑いといいつつ、「全治2週間」というのも医学的には矛盾しているように思えます)。
その後、作成した医師が、釈明のコメントを出し、「疑い」レベルであったこと、確定診断に至っていないことなどを説明していますが、実は、私たち弁護士から見ると、このような不可解な診断書は、時折り、目にするものでもあります。
最近でも、ある事件で、とんでもない診断書を目にしました。
その事件とは、傷害に関する民事事件で、被害者と称する人物が、いくつもの診断書を裁判所に提出して来たのです。
しかし、その内容は、カルテの記載と全く矛盾する内容でした。
その事件の場合、カルテと矛盾することを書いた医師は、後任の医師で直接診療には関わっていないという事情もあるのですが、それにしても、なぜカルテと矛盾する内容が書けるのかと、かなり腹立たしく感じたりしていました。
ただ、その事件の場合、はっきりしているのは、事件の相手方である、診断書を提出して来た本人は非常に粘着質で、一言でいえば、目的のためには手段を選ばないようなところのある人物だということでした。
ここからは推測になるのですが、おそらく、本人が、執拗に診断書への記載を強く求め、めんどくさくなった医師が、それに応じてしまったのではないかと思うのです。
結局、その事件では、裁判所の調査嘱託で入手したカルテの記載により、診断書の記載は信用できないとの結論に至って事なきを得ましたが、一般的には診断書の信用性は高いので、それを覆すのはなかなか大変なことなのです。
とにかく、この事件に限らず、診断書の内容が事実と異なるということは、実務上、決して稀なことではないというのが私たちの実感でもあります。
もう一点、弁護士の立場から見て、この事件の初期の報道のされ方を見ていて非常に嫌だなと感じたのは、必ずしも真実とは限らない可能性のある診断書の記載を前提に、日馬富士が極悪非道の人間のように報じられ、引退も不可避なように報じられ続けていたことです(結局、引退に追い込まれることになったようですが)。
一方的な暴力が振るわれていたことは事実のようですし、そのことの責任が問われないでいいということでは決してないのですが、不正確で一方的な情報でもって、先走った報道がなされ、ワイドショーなどでも無責任なコメントが溢れかえっていたことは、まるで中世の魔女狩りのようで、どう考えてもおかしいことなのではないかと思うのです。
そろそろ、こうした事件報道については、ある程度情報が揃った段階まで待って検証をしつつ報道するという姿勢に切り替えて行かなくてはならないのではないか、そうした情報に触れる側においても自制が必要なのではないかと感じる次第です。