昨日、私は65歳の誕生日を迎え、前期高齢者の仲間入りをしました。
こんなカテゴライズはクソだとか、いろいろと思うことはありますが、この日を迎えられたこと、そして、多くの人たちに助けてもらったことを心から感謝し、心から御礼申し上げたいと思います。
ところで、ここ数日、昔からの友人たちと話す機会がありました。
中でも、誕生日に話をした高校時代からの親友とは高校入学前の2月に出会っているので、出会いから50年という節目をすでに迎えたことになります。
他人にはどうってことのない話ではあるのですが、ちょっとそのことを書いてみたいと思います。
どうやって彼(こんがらがるので、とりあえずKとしておきます)と出会い、そして親しくなって行ったかについて思い返してみると、実際、人生には奇跡のような偶然の重なりというものが存在するのだと不思議な気持ちになります。
Kと最初に出会ったのは、広島の修道高校の受験会場でした。
実は当時の成績では、修道高校の合格は無理だということはわかっていました(また、うちは貧乏なので、私立はだめだとも言われていました)。
しかし、ある日、中学3年の時の担任に呼ばれて「修道と広大付属を受けろ」といわれたのです。
すかさず「無理です。受かるわけないから」と断りました。
しかし、担任は、「とにかく受けろ」の一点張りで、両親が説得されてしまい、結局受験することになりました。
あとで聞いた話ですが、担任の狙いは二つあったそうです。
一つは、私がいつもぎりぎりにならないと勉強に身が入らないタイプの生徒だったので、受験日程をまめに入れた方がいいというものでした。
もう一つの狙いは、私のためということではありませんでした。
実は、同じクラスで一番勉強ができる生徒がいて、彼(こんがらがるので、とりあえずIとしておきます)が私と親しかったのですが、Iの志望校が修道と広大付属だったのです。
なので、担任は、私が一緒に受験すればIがリラックスして受験に臨めるということも考えたというのです。
その担任はすでに亡くなられており、今となってはその真偽は不明ですが・・・。
ともあれ、私は友人Iと待ち合わせ、一緒に修道高校に行き、受験会場をうろうろしていました。
すると、そこでIがある受験生と挨拶をしたのです。
人懐っこい、ジャガイモみたいな顔の男でした。
その時、私は二人の会話をただ横に立って聞いていました。
修道高校の受験が終わり、今度は広大付属の受験に臨みました。
その時も、Iと待ち合わせて広大付属に行き、受験会場をうろうろしていたのですが、またもや修道の時と同じ受験生と出くわし、そこで二人はまた挨拶をしていました。
結局、私の方は番狂わせなどなく、修道と広大付属に落ちて地元の県立国泰寺高校に入学しました。
そして、入学初日、1年7組の教室に行くと、なんとその同じ教室に修道と広大付属で出会ったジャガイモみたいな顔をしたKがいるのです。
その時は、お互いに奇妙な偶然に驚き、あらためて挨拶をしました。
Kは非常に人望のある男で、その後クラス委員となり、私たちの代の生徒会長を務めることになります。
また、Kとの縁は1年生の時だけでなく、3年間ずっと同じクラスになりました。
一方の中学時代のIとは高校は別々になったものの、もう一人仲の良かった友人Oと放課後に会い、Iの家にしばしば泊まるなど、その関係は続いて行きます。
ただ、徐々に知ることになるのですが、私とKを引き合わせたIとKの関係は、その当時、若干微妙なものでした。
実は、IとKは元々同じ中学に入学していたのですが、Iは途中から私のいる中学に転校して来ました。
Iが元々いた中学は、市内で最も荒れていることで有名でした(広島の地元の人間なら大体わかるはずです)。
そこで、Iは上級生の不良たちから目をつけられ、家の前で不良たちが待ち構えているような状況になっていたので、ご両親がやむなく転校させたのです。
一方のKは、そのままその中学を卒業するのですが、彼は中学でも生徒会長を務めています(あとで聞いたら、親の引っ越しで一瞬だけ転校したものの、つまらないと感じて元の中学に戻ったそうなのですが)。
KはIが転校に追い込まれた事情を知らなかったこともあって、高校入学当時は、Iに対して複雑な思いを持っているような話をしていました。
それはともかく、高校卒業後も、私はK、そしてIやもう一人の中学時代の友人Oとの関係が続きます。
Iは中央大学に進み、困っている人、労働者を助け、世の中を良くする仕事に就きたいといって、司法試験を志します。
一方の私は、音楽をやりたいとほざきながら、だらだらとした大学時代を過ごすのですが、Iとは月に1回以上は、池袋か渋谷で会って、それからどちらかの家に行き、朝方まで酒を飲みながら話をするという関係を続けていました。
いよいよ大学を卒業する間近になり、就職するかどうかを迷っていたのですが、結局、IやKの影響もあり、私自身、世のため人のためにできることをしたいという思いがありましたので、そこから司法試験を目指すことを決めました。
一方のKはさらにピュアで、紆余曲折はありましたが、困っている人の力になりたいといって福祉の仕事を志すようになります。
やがて、私もIも司法試験に合格し、Iは地元である広島に戻り、私は横浜で、それぞれ弁護士になりました。
Iが広島に戻ったことで、IとKとの関係はさらに深まります。
Kは、ある知的障害者の施設で働くようになり、現在はその施設の責任者になっていますが、職場や障害者の問題でもIにしばしば相談するようになりました。
最近では、広島に戻る時は、3人で会うことが多くなっています。
そこに、もう一人の中学時代の友人Oや、なぜかその関係性を気に入って割り込んできた私の大学時代の友人N(彼は現在中央大学の教授ですが)や、ちょっと変わった新聞記者なんかも加わって、何やら猥雑な人間関係が構築されて行ったのです。
Nについていえば、彼の現在の重要な研究テーマの一つは、日本の被爆者運動だそうで、時々、広島に行ってKやIに会い、そこからいろいろな人を紹介してもらったりしながら調査を重ねているそうです。
ここのところ、私は以前にも増して日々の生活に追われ、またコロナの影響もあってなかなか広島に戻れないのですが、近々、広島に戻る計画を練っています。
その理由は2つあります(本当はもう一つあるのですが、この記事と関係ないので省きます)。
実は、Kに腫瘍が見つかり、予後はさほど心配ないそうですが、近々入院して手術を受けることになりました。
一方、Iの方はといえば、4月から広島弁護士会の会長に就任することになったのです。
昨年の夏にもちらっとそんな話を聞いていましたが、ずっと高い志を持ち、時に挫折を味わいながらもぶれることなく生きて来たIが、被爆地広島の弁護士会長を務めることは、とても意味のあることだと思いますし、また、本当に嬉しくて堪りません。
先日、彼らの話を、共通の友人であるNに話したら、一緒に広島に行ってKの快気祝いとIの会長就任祝いをやろうと持ち掛けられました。
話はとんとん拍子に進んだので、今月中には広島で再会することになるはずです。
もしかしたら、もう一人の中学時代の友人O(彼は今和歌山で有機農業を営みながら、経営コンサルタントの仕事をやっています)も日程を調整して駆けつけてくれるかもしれません。
今からその日が楽しみです。
IもOもKも、そしてNも、みんな私にとっては本当に大切な友人です。
Nは大学からですが(それでも優に45年になります)、I、O、Kとの関係は半世紀を超えるものになりました。
しかし、この関係がより濃密で、何物にも代え難いほど貴重なものとなったのは、紛れもなく、あの日、受験会場でIとKが偶然に出会い、そしてまた偶然にKと私が高校で同じクラスになるという、私にとって奇跡のような偶然の積み重ねがあったからだという気がしてなりません。
日々の出来事に関する記憶力の衰えを強く感じるこの頃ですが、修道と広大付属の受験会場でIとKが挨拶した時の情景は今でも鮮明に思い出すことができます。
その偶然が、今に連なっていると思うと、やはり人生は面白く不思議なものだと感じます。
まもなくやってくる4月は新しい出会いの季節ですが、これから進学、進級、就職する人たちにとっても、そこで出会う人が一生の友人になるかもしれません。
そこまでの日々がどんなにしんどかったとしても、なんとか気持ちを切り替えて、前を向いて、わくわくしながら新しい季節を迎えてほしいと心から思うのです。
最後にもう一度、こんな私と長く付き合ってくれている友人たちに、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。
貴方たちがいたから、今、私はここにいることができたのだと、そう感じています。