縁あって、「いわたくんちのおばあちゃん」という絵本童話を読みましたので、今日はそのお話をさせていただきたいと思います。
この「いわたくんちのおばあちゃん」がどのようなお話かといいますと、いわたくんのおばあちゃんが、いわたくんの運動会を見に来たのだけれど、家族写真を撮ろうと声をかけられた時に、おばあちゃんは「みんなと一緒に写ることができない」ということを聞かされるのです。
そして、そこから、周りの人がおばあちゃんのつらく悲しい戦争の体験を知ることになるというお話なのですが、このお話はいわたくんのおばあちゃんが広島で被爆した体験に基づく実話なのです。
さらに、ごく個人的なことなのですが、「いわたくんちのおばあちゃん」は、私が子供の時に隣に住んでおられた方で、私の亡き母とは、生涯とても親しくお付き合いいただいた友人でもあるのです。
そうしたご縁のお話はひとまず措くとして、この絵本童話は、おばあちゃんの心に秘めたつらく悲しい被爆体験をわかりやすく伝えるとても素晴らしい作品だといえるでしょう。
私自身、広島出身の被爆二世であり、また、神奈川県在住の被爆者の原爆症認定訴訟にも関わっていましたので、亡き父も含め、多くの被爆者から辛い被爆体験を詳細に伺っていたりします。
しかし、いろんな被爆体験を直接伺う機会がそれなりにあった私でも、この絵本童話を読んだときには思わず涙してしまいました。
お話の内容に触れることなので詳しくは述べませんが、おばあちゃんの家族は、おばあちゃんを除いて全員原爆で亡くなっています。
おばあちゃんは、当時まだ10代でしたが、直前まで一緒に暮らしていた家族の平穏な生活が一瞬にして奪われたのです。
そのあまりにつらい体験が冒頭の写真のお話につながります。
一瞬にして平穏な生活を根こそぎ破壊する核兵器の恐ろしさのお話でもあり、また戦争被害のリアルな真実、本質がわかりやすく伝わってきます。
この絵本童話の中にも出てきますが、いわたくんのおばあちゃんの長女、つまりはいわたくんのおかあさんが、おばあちゃんの被爆体験を伝える語り部の役目を果たしておられます。
実は、このいわたくんのおかあさんは私の幼馴染でもあるのですが、私と同じ本川小学校の出身でもあります。
本川小学校は、爆心地から最も近くの小学校であり、今の平和公園の北側に架かる相生橋を西側に渡ったすぐ下手にあります(原爆資料館にある被爆直後の写真にも写っています)。
私が作った「相生橋から」という歌の中に「橋の下手の学校の校庭で戯れる子供たち」という歌詞があるのですが、それは本川小学校のことです。
この本川小学校の一角にも小さな原爆資料館がありますが、いわたくんのおかあさんは、その設置にも尽力したと伺っています。
絵本童話の作成もそうですが、被爆体験を風化させないためのそうした取り組みには、心から敬意を示したいと思います。
ここでちょっと思い出話をさせてください。
いわたくんちのおばあちゃんは、私の生家の隣で生涯お茶屋さん(お茶を売る方のお茶屋ですが)を営んでおられました。
おばあちゃん(もちろん、私が子供のころはおばあちゃんではありません)は、小柄な方でしたが、いつもにこにこして優しい女性でした。
私の母も、その方が大好きで、お茶屋さんの隣から引っ越して以後も、亡くなるまでずっとお茶はいつもそのお店で買っていましたし、たまに私が一緒についていくこともあったのですが、いつ行っても、とても優しく接してくださいました。
そんなわけで、すごく懐かしい方でもあるのです。
しかし、そんな優しい方にこんなつらい戦争体験があったことを私は全然知りませんでした。
同世代だった私の母にも、両親と弟が満州で行方知れずとなり、数十年後になって、終戦の混乱の中で餓死したのだと知らされるという、やはり人には言えないつらい戦争体験がありました。
しかし、母もいわたくんちのおばあちゃんも、共通するのは、人に対して本当に思いやりをもって優しく接する人だったということです。
絶望したくなるようなつらい戦争体験を心に秘め、戦後の混乱期を歯を食いしばって生きながら、なぜあのように人に優しく思いやりのある人でいられたのか、とても不思議な気持ちがする一方、逆に、あのようなつらい戦争体験があったからこそ、平和に家族と暮らせる喜びを噛みしめながら、周りの人たちにも優しく接することができたのかもしれないと、母のことも含め、あらためてそんなことを感じています。
今や、被爆体験を語れる人は本当に少なくなってしまいました。
かつて原爆症認定訴訟に携わった時に、被爆体験を語っておられた被爆者の方々もすでにその多くが亡くなられました。
ですが、ウクライナへのロシアの侵略や、日本も含めたその後の世界のきな臭い動向を見るにつけ、被爆の体験、実相を語り継いで、核兵器の恐ろしさを伝えて行くことは、広島や長崎に生まれ育った人間の使命なのではないかと強く感じます。
私が作った曲でまだCD化はしていませんが、ライブでは必ず演奏する「最後の語り部」という作品があります。
「忘れられないあの日からいったいどれだけの時がすぎてしまったんだろう そしていつか誰かが本当に最後の語り部になってしまってるんだろう」という繰り返しの歌詞があるのですが、それは、一方で二度と核兵器が使われない世界が来ることを願いつつ、他方で、核兵器の被害を矮小化し、被爆者を軽んじる日本の行政の姿勢を糾弾するというものでした(実際、原爆症認定訴訟の活動の中で知った、日本の被爆者行政の姿勢は本当にひどいものでしたから)。
いわたくんちのお母さんが、おばあちゃんの被爆体験を語り継ぐ「語り部」として、生まれ育った広島で頑張っておられることを、幼馴染として、また同じ被爆二世として、誇りに思いつつ、エールを送りたいと思います。
最後に、この「いわたくんちのおばあちゃん」は、多くの人に読んでもらいたい絵本童話ですので、興味を持たれた方は、ぜひ購入してご一読ください(広島では本の内容が平和教材に指定されているそうで、入手は大変かもしれませんが)。
ちなみに、うちの事務所には、常設しております。