Part1からの続きですが、能登半島のエリアは、今回の地震が来る前には、国が作成する地震マップ上では、危険な活断層がないことになっていました。
また、一昨年の群発地震の際も、地震調査委員会の平田という委員長は、「今後も、しばらくは同程度の規模の地震が起きる可能性がある」と通り一遍の見解を述べるだけで、今回も同じ人物が同じような発言を繰り返していました。
しかし、Part1でも指摘したとおり、その時点ですでに、金沢大、京大あたりの研究者は、「流体」の存在に着目し、さらなる巨大地震、さらには津波の危険にまで言及していたわけですから、地震調査委員会の認識が不十分であったことは明らかだし、委員会の存在意義が疑われてもおかしくない失態なのではないでしょうか(多くの方が亡くなっているのですから、せめて、委員会の認識が甘かったくらいのことを言って頭を下げるくらいのことはしてほしいと思いました)。
そこからさらに考えたことがあるのですが、それは、地震予知でしきりに使われる「活断層」という言葉の意味の曖昧さです。
これって、本当に自然科学的にみて、正しく使われている言葉なのでしょうか。
たとえば、ここのところで起きている巨大地震のうち、「活断層」のずれで起きたとされるものは、長野県北部地震と熊本地震のみだそうで(東日本大震災は発生の機序が異なります)、それ以外は、今回の能登半島地震も含め、活断層があると事前に指摘されていない場所で起きているのだそうです。
となると、断層を活断層とそうでないものに分けることに何の意味があるのかという疑問が湧いて来ます。
もちろん、活断層がある場所では地震への備えに心がけるという啓発的な意味はあるのでしょうが、これから断層がずれる可能性があるかなんて、今の科学のレベルでは厳密に判断できないというのが本当のところではないでしょうか。
実際、今回の能登半島地震が起きたメカニズムが「流体」の影響によるものだとした場合、「活」断層か否かは、何の意味もないのかもしれません。
平松教授らによると、地下の流体は、東京ドーム23杯分もあったそうで(それがわかることがすごいですが)、それが海底の断層に入り込んで断層を押し広げ、ずれを招いたというのですから、流体の行方次第ということになり、流体が入り込む余地のある断層さえあるなら、何処であれ、今回のような地震は起き得るということになるからです。
ところで、「活断層」か否かは、日本の将来を左右する重要な場面で、意味を与え続けられて来ました。
それは原発の再稼働を認めるかどうかという場面でのことです。
政府の原子力規制委員会は、原発の立地が活断層の上ということでなければ再稼働を認めるという方針を取っており、電力会社側は、「指摘された断層は活断層ではない」という検証の報告書を提出して、再稼働に持って行こうとしている現状があります。
しかし、実際の巨大地震が、活断層と位置付けられてない場所で起きるというのであれば、そんな基準や議論には何の意味もないことになります。
実際、能登半島にあり、かなりの被害を受けたとされる志賀原発の再稼働に関する審査で、象徴的ともいえる茶番のような事態が起きています。
敬意をたどると、2012年ころ、志賀原発の敷地内に活断層があるのではという指摘があり、その後、国も活断層との認識を示していました。
ところが、その後、北陸電力側が、調査報告書を提出して、去年の原子力規制委員会で、いったんは国が認めた「活断層」との認識をひっくり返し、「活断層ではない」として、再稼働の方向に舵を切るという、今から見れば、明らかな失態を犯しました。
地下の流体が断層を押し広げて、断層のずれを引き起こすというメカニズムを前提に考えると、定義の曖昧な「活」断層か否かで、再稼働を認めるなんてもはや茶番というほかありません。
原発規制委員会の審査のあり方の根本が問われているといっても過言ではないでしょう。
前にもそういう表現を使ったことがありますが、原発は、「動かない(動かせない)核兵器」です。
実際、かつて宮崎駿監督はこんなにも多くの原発がある日本が戦争なんかできるわけがないと言っておられますし、北朝鮮は、日本と戦争になれば、原発にミサイルを撃ち込むと挑発していたこともあります。
戦争のことはともかく、もし、万が一にも、福島原発で起きたような事態が再び起きれば、その周辺が根こそぎ廃墟となることは避けられず、本当に取り返しのつかないことになります(実際、福島の現実は取り返しのつかないものです)。
今回は、たまたま海底の断層がずれましたが、志賀原発の直下あるいは近辺の断層がずれて、海底が数メートルも隆起すれば、電源喪失どころか、建屋が破壊され、メルトダウンは必至だったはずです(再稼働に反対する人の粘り強い運動がなく、再稼働となっていたら、今回の地震の影響でより重大な被害が出ていた可能性だって否定できません)。
原発の再稼働で議論されているような電源喪失を防ぐ体制のあるなしの次元ではないのです。
また、能登半島のほんの少し南西側には、いわゆる「原発銀座」があります。
そこに、今回のような巨大地震が直撃すればどうなるでしょうか。
関西圏、北陸圏は壊滅の危機に瀕するでしょうから、想像するだけで空恐ろしいことです。
所詮、原子力規制委員会も、地震調査委員会も、原発を推進しようとする今の自民党政府の関係機関にすぎません。
巨大な震える舌の上に乗っかっている日本列島に生きている以上、いつどこで巨大地震に見舞われるかわからないわけで、「活断層」なんて紛らわしい言葉でもって、国民を欺くのはもうやめて、すべての原発の稼働を停止していく方向へと政策転換すべきです。
今回の能登半島地震のことで、もう一つ強く感じたことがあります。
それは、地震が起きた後の援助、サポート体制が如何に脆弱であるかということです。
地震が起きた直後の救援活動の初動の遅さの問題もありますが、それだけでなく、今回のようにインフラが壊滅状態になったときに、現地で苦しんでいる人たちのことが連日カメラが入って報道されているにもかかわらず、なぜそれが未だに解消されないままなのかという備えの脆弱さについてです。
能登半島からちょっと外れた場所では、何事もなかったように人々は暮らしています。
もちろん、どこにいても、多くの人が日々の生活、仕事に追われていますから、それは致し方のないことでもあります。
ただ、地震や洪水などの重大な被害は、決して他人事ではありません。
それゆえ、起きてからの対応ということではなく、たとえば、水や食料、さらには住む場所の確保の問題あたりについては、災害が起きるよりもっと前の段階で、より広域で対応を考えておくべきことではないでしょうか。
実際、日本の人口は、すでに減少しかけており、あちこちで過疎化が進んでいますから、いざとなったときに、緊急で避難する人を受け入れる体制をあらかじめ構築しておくことは十分に可能だし、特に、地震や洪水などの甚大な被害は毎年のように起きているわけですから、それこそ、いざというときに何の役に立たず、政治的な思惑に左右されるだけの「何とか委員会」なんかより、そういう仕組みを優先的に作って、その時に備えておくべきと思います。
まあ、裏金工作で、如何にして自分の懐を温めようかということしか考えない、今の保守政党の連中には、期待するだけ無駄のようにも思いますが。
根本的な問題は、私たちが、この国をどうしたいかというところにかかっています。
目先の経済的利益を優先し、弱肉強食で、搾取される人が苦しむのを放置するような社会を目指すのか、そうではなく、経済的にも所得の再分配で健全な競争社会、そしていざとなれば助け合えるような共助の仕組みを手厚くするような社会を目指すのかということなのだと思います。
後者を目指したいと思う人が増え、選挙に行き、声を上げるような社会であってほしいと心から願っています。