事務所トピックス

日々雑感~この国に正義はあるか?

弁護士 折本 和司

安倍前首相が「桜を見る会の前夜祭」に関する疑惑で、東京地検特捜部が「嫌疑不十分不起訴」としたとの報道がありました。

その理由は、「桜を見る会の前夜祭」のホテル利用料の補填をしたことについて、自身は知らなかったという安倍氏の弁解を覆す証拠がないということのようです。

しかし、こんな説明で納得する人間なんているのでしょうか(納得した振りをする人間はいるかもしれませんが)。

ましてや、証拠を精査し、被疑者の不自然な言い訳の中にある嘘を見抜いて真実に到達することが生業であるはずのプロフェッショナルの検察官が納得するなんてまずもって考えられないことです。

なのに、不起訴?

しかも、この年末のコロナの大変な時期に、拙速に?

検察がそのような結論を出してしまったなんて、もはやこの国に正義なんてものは存在しないといっても過言ではないのかもしれません。

法治国家である(あった)はずのこの国の現実に深い絶望と憤りを禁じ得ませんので、今日はこの問題を取り上げます。

 

まず、この「桜を見る会の前夜祭」に関する疑惑について、簡単に問題点を指摘します。

「桜を見る会の前夜祭」は、「桜を見る会」の直前に安倍氏の支援者らを集めてホテルニューオータニで開かれた会食形式の集まりですが、参加者が負担した会費は5000円にすぎませんでした。

しかし、腐っても(言葉のあやです)ニューオータニですから、5000円で済むはずはありません。

そこで、不足分を安倍氏側が補填していたのではないかという疑惑が持ち上がることになります。

もちろん、そうなれば、選挙区の選挙民、支援者に対する利益供与となるので公職選挙法違反の問題も生じますし、収支報告書への不記載もあるため政治資金規正法違反の問題も生じます。

それを恐れてのことだったのでしょう。この問題について、安倍氏は、森友や加計の時と同様、補填の事実を否定し、ホテル側から領収証を渡されたことについても否定するなどして、参加者の名簿も開示せず、国会の質疑で、しらを切る姿勢を取り続けます。

今にして振り返ると、今年8月末の突然の首相退任表明もこの問題が表面化することが避けられないと見たからなのかもしれません。

 

そしてこの退任表明からわずか4ヶ月弱で、不起訴処分での幕引きが図られようとしているわけです。

皆さんはどう感じておられるでしょうか。

私は、最初に書いたとおり、この国の現実に絶望しています。

もはや正義はないのだと。

かつてボブ・ディランが、無実の黒人ボクサーを救えと歌った「ハリケーン」という曲の中で、「この国では正義はゲームでしかない」と訴えていましたが、まさに、今の日本では、正義なんてものは、権力者の都合で、恣意的に操作できる歪んだものに成り下がってしまいました。

 

安倍氏の弁解はおよそ信じがたいものであることは、事件の経緯を振り返れば明白です。

たとえば、この桜を見る会の前夜祭で行われた補填は、この年が初めてではなく、少なくとも5年間は繰り返されているとのことですが、1回限りのことならいざ知らず、毎年、多くの選挙民、支援者を呼び寄せて、その費用の一部を負担するということが、秘書だけの判断でなされていたなんてこと(少なくとも安倍氏が全く知らないなんてこと)があり得るでしょうか(不起訴後の会見では、さらにその原資が個人の預金からのものと述べていますので、なおさらおかしなことになります)。

また、国会での質疑で、彼は、補填を何度も強くきっぱりと否定していますが、そうだとすると、一国の首相ともあろう人物が、秘書の虚偽の説明を鵜呑みにし、自身ではその裏付けを取ることもなく、国会できっぱりと疑惑を否定し続けていたことになります。

しかし、実際にいくらかかったかについては、一方当事者であるホテル側に確認すればすぐに明らかとなったはずですし、実際、野党側からの照会には回答がなされ、答弁の矛盾点が示されたにもかかわらず、安倍氏はその後もまったく検証を試みることすらしていません。

実際、ニューオータニのトップは、安倍氏の支援者の一人とされており、本当の会費がいくらであったか、領収証を誰宛に発行したかなどは、なおのこと、容易に確認し得たはずです。

それをやろうともせず、国会で嘘を垂れ流し続けたということ自体、ほかならぬ安倍氏自身が嘘であることを承知していたからというのが、ごく自然な見方でしょう。

いくら、ニューオータニの代表者が安倍氏の支援者であるとしても、さすがに多くの出席者がいる集まりについて、安倍氏の嘘に沿うような証拠を公に出せるはずはなく、ニューオータニに対して証拠の開示を求めることは墓穴を掘る(嘘がばれる)ことになるからです。

つまり、国会での審議中に、安倍氏がニューオータニに証拠開示を求めなかったこと自体が、「わかって嘘をついている」ことを裏付ける重要な事実となるのです。

変な言い方かもしれませんが、秘書のせいにして逃げ切るなら、国会審理中に「ホテルに確認したところ、補填の事実が明らかになった。秘書が勝手にやっていたことだが、すべて私の不徳の致すところで、責任を痛感している」とでもいえばよかったわけです(まあ、責任は痛感しても、責任を取らないのが安倍流なのですが)。

そこまで知恵が回らなかったか、今回もごまかしていれば逃げ切れると読んだのかわかりませんが、国会での疑惑追及が進行中の間の安倍氏の振る舞い自体、一連の補填が安倍氏の指示もしくは了解のもとに行われ続けたことの証左といえるでしょう。

 

ところで、安倍氏の不起訴と同じ日に、くしくも安倍氏が検事総長にと目論んでいた黒川元検事長の賭け麻雀疑惑について、検察審査会が「起訴相当」の結論を出したとの報道がありました。

安倍氏についても同様の判断が出ることを予感させるニュースですが、裏を返せば、この国の刑事司法のメインエンジンである検察庁がまともに機能しておらず、権力に取り込まれてしまっている現実が二重に浮き彫りになったともいえます。

黒川元検事長の賭け麻雀疑惑について、今後、検察がどのような結論を出すのかにも注目が集まりますが、安倍氏の処分についていえば、今後の展開による条件付きの状況ではあるものの、検察に対して強く求めたいことがあります。

おそらく安倍氏の不起訴処分については、今後、検察審査会への申立がなされるでしょうから、そこで「起訴相当」もしくは「不起訴不相当」の結論が出された時には、今度こそ、勇気を見せて、検察こそが正義の実現の担い手なのだという気概を私たち国民に示してほしいのです。

特に、担当となる検察官に対しては、もし上からの圧力があっても、決してそれに屈することなく、場合によっては、内部告発をしてでも、安倍氏を正式に起訴してもらいたいと思います(この件は、検察審査会で2回起訴相当の判断が出る可能性が十分にありますが、そうなること自体、検察の死を意味するといっても過言ではないでしょう)。

 

最後に申し上げたいのは、こうした問題の根っこにある、今の自民党中心の露骨な利権誘導型政治を終わらせない限り、この国の未来は暗澹たるものになるということです。

多くの国民が感じているように、コロナ感染再拡大という今の日本の状況もまた、やはり自民党の露骨な利権誘導型政治によってもたらされた人災の面が大きいといえますが、安倍氏の一連の疑惑もまた同根といえます。

野党は頼りないし、軸がぶれぶれの議員も多いですが、アメリカのように、現状を変えることで政治が浄化されるということには、それ自体、大きな意味があるはずです。

私たち国民一人一人が、常に政治のあり方に関心を持ち、怒りの声を上げなければならないし、そうしなければ本当に手遅れになってしまうと、心からそう思うのです。

 

2020年12月27日 > トピックス, 日々雑感

日々雑感~コロナ感染の「分水嶺」とコロナ検査の徹底について

葵法律事務所

いよいよ年末が迫る中、コロナ感染は終息の兆候どころか、ちょっと前まで一日あたり数百人どまりだった感染者数もあっという間に1000人台から2000人台を飛び越え、3000人台に達し、さらに4000人台になろうかという状況になっています。
しかし、このような事態に至ることは夏前からずっと予測されていました。
政府が、春先からずっと的外れでその場しのぎの対策に終始し、金融市場にはじゃぶじゃぶと金をつぎ込む一方、コロナ感染を抑え込むために最も優先されるべき対策を怠っていたからです。
実際、政府がやってきた対策は、国民の税金を使って安倍マスクをばらまき、いきなり学校の休校を指示し、曖昧な自粛要請や、口先だけの「勝負の*週間」などで右往左往した挙句、国民一人一人に10万円を支給し、あちこちで詐欺を誘発することとなる持続化給付金制度を立ち上げ、電通やパソナなどに美味しい思いをさせ、さらにはコロナ終息後に行うとしていたGo to travelを前倒しし、さらには終息が見通せない中、Go to eatまでをもスタートさせるといったものです(しかも、Go to travelもGo to eatも、安倍政権、菅政権の中枢とつながりのある業界、関係者が利益を享受できる構図が明らかになりつつあります)。
今の感染拡大は、冬を迎えたことによる部分もあるでしょうが(冬季の乾燥状態はウイルスにとってはありがたい環境となりますし、寒くなれば換気もおろそかになります)、それだけに、人の移動を拡大し、より密な状況を生み出すGo to travel、Go to eatを政策として押し進めて来た政府のやり方は愚の骨頂というほかないでしょう(もちろん、コロナ感染の影響を受ける業界の方々の大変さは重々承知していますが、方向が間違っていると申し上げたいのです)。

個々にはあれこれ指摘したいこともありますが、その点は省きます(関連で触れることはありますが)。
政策の立案遂行の前提として肝心なことは、目指すべき目標が的確であることです。
この点で、あまりに場当たりで、しかも、関係者の思惑でしか考えていられない政府のやり方は、根本から間違っています。
何よりも目指すべき目標は、コロナ感染者、特に重症者、死者を減らすことです。
そのために大切なことは、モーニングショーの玉川さんあたりがずっと言っているように、「コロナ感染の早期発見」に尽きます。
早期発見の必要性はどのような病気でも言われることですが、とりわけ、コロナの場合、その必要性は極めて高いといえます。
前にも書きましたが、コロナ感染者の大部分は、無症状であり、しかも厄介なことに、無症状の時期に強い感染力があるからです。
表現は悪いですが、わかりやすく例えれば、コロナ感染とはつまり、「誰がゾンビかわからない状況で、ゾンビが街を歩き回っており、突然襲い掛かって来るようなもの」です(そして、自分がゾンビ化したことに気づかない感染者がさらに自覚なく感染者を増やすという悪循環に陥ります)。
インフルエンザも死に至るリスクはありますが、インフルエンザの場合、最も感染力が高いのは発症後なので、この点で決定的に違います。
ではどうすればいいかですが、「誰もができるだけ早く感染の有無を把握するために検査を受けることができるような態勢を構築すること」、これに尽きます。
無症状でも感染が明らかになれば、そこから2週間、誰とも接しないことにすればいいわけです(もちろん、重症者、高齢者、そして、癌などの感染が増悪しやすい持病を抱えている人は別ですが)。
しかし、当初からずっと言われていることですが、政府の政策は、たとえば、37度5分以上の発熱が4日以上続いてからでないと検査が受けられないといった制限を付け、その後、さすがにそれは止めたものの、未だに、簡単に検査を受ける態勢は構築されていません。
無症状感染者を野放しにして、そうした患者がどんどん増えているのに、その根本を改めようとしない政府の対応こそが、感染をずるずると蔓延化させ、観光、飲食、風俗産業あたりを中心に、真綿で首を絞めるがごとくダメージを与え、破綻に追い込もうとしている元凶たる愚策であり、もはや人災というほかありません。
とにかく、一刻の猶予もなく実施すべきは、誰でもすぐに検査が受けられる態勢の構築なのです。

もう一つ、そのこととも関連しますが、全国一律の横並びの対策にも疑問があります。
なぜならば、主として感染が広がっているのは、大規模な歓楽街を抱える中核都市だからです。
ここにきて全国的に広がっているのは、東京圏、大阪圏あたりの人の行き来による可能性が高いからであり(時期的な重なり合いから見てGo to travel、Go to eatが大きく寄与していることも明らかでしょう)、そうなると、「くさいにおいは~」で、大規模都市圏、特に東京圏における感染の抑え込みに注力すべきです。
そして前述のコロナ検査も、このエリアにこそマンパワーを割く必要があります。
ちなみに、広島などの地方の中核都市でもコロナ感染が広がっており、確かに広島には中四国一の歓楽街といわれる流川地区もありますが、そこをどうこうするよりも、大都市圏の感染を徹底的に抑え込むことが肝心で、それさえできれば、地方で感染が広がりつつあるエリアでは、当面、大都市圏との人の移動を最小限にすることが最大の対策になるはずです。
もちろん、地方でも医療機関や福祉施設などでは感染リスクが高く、またいったん発生するとクラスターとなったり、死に至ったりするリスクがあるので、コロナ対策を軽んじていいということではありませんが、全国に感染を拡散しているのは紛れもなく大都市圏だということを念頭に置いた取り組みが必要だと思うのです。

この点で今最も気がかりなことは、東京圏の感染者数の増加の著しさです。
あまり正面から議論されていないようですが、諸外国の感染状況を見ても、感染者数が爆発的に増加するか否かの「分水嶺」なるものを想定する必要があると思います。
つまり、人の移動が激しく、濃厚接触となりがちな歓楽街を抱える大都市圏においては、感染者の割合が一定のラインを超えると、このエリアは人口密度が高いだけでなく、交通網が発達していて活動範囲が広く、移動も頻繁なだけに、そこからはどのような対策を執っても爆発的に感染者が増えることになる、見えないデッドラインがあるはずです。
たとえば、ニューヨークは、クオモ知事になってから、非常に的確な対策と情報発信を行っているようですが、感染者数は減少していません。
それは、早い段階で感染爆発の分水嶺を超えてしまったからと見れば説明がつきます。
統計的に厳密に評価するのは難しいのかもしれませんが、たとえば、一両の電車に数人以上の無症状感染者が乗車していれば、必然、感染リスクが高くなることは避けられません。
気になることとして、12月中旬以降、大阪、北海道あたりは、やや感染者数が減少しつつあるのに対し、東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)では、下旬になってさらに増加傾向が続き、24日には4都県の合計で1800人を超えており、もしかすると、すでに「分水嶺」を超えてしまっているのではという危惧さえあります。
となると、この東京圏については、最優先で、全員がコロナ検査を受けられる態勢が構築されなくてはならないということを強く訴えたいと思います(大阪圏も、京都、兵庫あたりの増加傾向からすると、同じように対策を執るべきでしょう)。

コロナ対策についてはほかにもいろいろと述べたいことがありますが、この続きはまたということで。

2020年12月27日 > トピックス, 日々雑感

事件日記~労災の再審査請求で不支給処分が取り消されました!

葵法律事務所

当事務所で扱っております労災の再審査請求で、不支給処分が取り消されましたので、その事件のことについてご報告したいと思います。

まず、事件の概要をご説明します。
事件は、あるナイトクラブで起きました。
従業員である東南アジア系の外国人女性は、同僚の女性が接客中に常連客の男性から絡まれてしまい、助けを求められたため、常連客を止めようとします。
しかし、それに怒った常連客が女性従業員をソファーで押し倒し、彼女の足関節を思い切りねじったのです。
その結果、女性従業員は膝の前十字靭帯を損傷し、その後手術を受けましたが、1年半以上経った今も普通に歩くことはできません。
事件は、労災事故であるとともに民事の損害賠償請求事件であることから、当初、示談交渉事件として受任することになりました。
民事の損害賠償請求は、当然ながら加害者の男性に対して行うことになります。
この時点では、よもや労災が認められないこと等あり得ないと考えていました。

ところが、その後、労災と認定されず、不支給決定が出ます。
その理由を見て、私たちは驚きました。
「自招行為」であり、業務上災害と評価できないという結論だったからです。
つまり、怪我は自ら招いたものなので業務に起因せず労災にはあたらないという判断だったわけです。
調べてみると、労基署の調査では、常連客だけではなく、被害者に助けを求めた女性従業員が、その常連客の言い分に沿う供述をしていることがわかりました。
しかしこの判断は明らかに不合理なものでした。
実は、この事件では、当時現場でその場面を目撃していた人物が何人もいたのですが、労基署の担当官はそれらの人たちから全く事情を聞いていませんでした。
加害者が真実を話すとは限らないことはいうまでもないことですが、その人物は常連客であり、その言い分に沿う供述をした女性は店の従業員ですから、店側に指示されて虚偽の証言をすることは十分にあり得ることです。
にもかかわらず、労基署の担当者は、その場に居合わせた複数の目撃者の話を聞こうともせず、加害者の言い分を鵜呑みにし、被害者の主張を虚偽だと判断したのです。
もう一点、これが決定的なのですが、加害者は、被害者の怪我について、自分に突っかかって来たので、振り払ったところ、足をひねったという言い分を述べていました。
しかし、被害者が負った膝の前十字靭帯の損傷は振り払われて足を捻った程度で生じること等絶対にあり得ません。
この一点のみで、加害者の言い分が嘘だということは明らかでした。
私たちは、目撃者の証言の録音、録画を添えて、審査請求をしました。
ただ、この時点では審査請求で判断は覆ると楽観視していました。
なぜかというと、業務中の第三者による負傷の場合は、業務起因性を推定するという通達もありますので、複数の目撃者がおり、医学的評価からしても自招行為の認定は維持されるはずはないと踏んでいたからです。

ところが、審査請求の結果は前と変わりませんでした。
正直、愕然としました。
また、同時に、依頼者の落胆は非常に大きなものがありました。
そこで、私たちは、再審査請求を行うか、訴訟に切り替えるかを検討したのです。
事案の内容からして、訴訟に切り替えれば、まず間違いなく判断は覆るという確信はありました。
しかし、訴訟となると、相手は国ですので、相当な労力と時間を要することは容易に想像できました。
その一方、再審査請求は、早期に判断が得られますが、結果が覆る可能性は裁判に比べると低いといわれていることもあり、もし、再審査請求で判断が覆らなければ、そこから訴訟となり、二度手間となってしまいます。
いろいろと迷いましたが、依頼者とも相談し、結局再審査請求を選択しました。

再審査請求の手続では、指示されたいくつかの書面を提出し、さらに希望があれば労働保険審査会に出頭して質疑に応じたり口頭で意見を述べることができます。
ちょうど、コロナの影響が拡大し始めた時期でしたが、審査会は開かれ、その場で審査員の方々と対面でやりとりをすることができました。
この審査会の手続は、わりとあっさり終わってしまうこともあるのですが、今回は審査員からいろいろと尋ねられ、また追加資料の提出を求められるといったやりとりもあって、審査会が終わった時点では、それなりの手応えを感じていました。
ところが、その後コロナ危機が拡大したことから、夏前には出るのではと思っていた結論は、秋になっても届きませんでした。
依頼者のことを思うと、じりじりした日々が続いていましたが、10月後半になって、やっと吉報が届きました。
原処分を取り消すという内容で、嬉しいというよりは、一山超えたということで、ホッとしたというのが正直なところでした。

事件はまだ続くのですが、ここまでの経緯を振り返るといろいろ思うことがあります。

まず、はっきり言って、労基署の判断と審査請求の判断については、およそプロの仕事とはいえませんし、非常に腹立たしく思います。
本件の場合、事実を自然にとらえて客観的に証拠を評価すれば、加害者側の言い分は筋が通らず、虚偽であることは一目瞭然でした。
中でも決定的なことは、前述したとおり、振り払われて、足を捻っただけで、膝の前十字靭帯を損傷するはず等ないということでした。
そうした医学的な不合理さは、手術を行った医師に確認すればすぐにわかることなのに、調査にあたった担当者らは医師への聞き取りすら行っていませんでした。
また、原処分では加害者の供述に沿う証言をした女性従業員について、「嘘をつく理由がない」としてその証言は信用できると認定しているのですが、常連客をかばおうとする店側が従業員に虚偽の証言をさせる可能性を洞察する想像力すらないのかと言いたくなります。
さらに、調査の過程で、複数いた目撃者からもまったく話を聞いていないこともおよそ信じ難い手抜きといえます。
また、本件の場合、前述した通達もあるわけで、それを無視するがごとく不利益な認定がなされているわけでなおさらです。
ここまでひどいと、もしかしたら労基署の担当者は、本件について端から労災にしないつもりだったのではないかという疑念さえ湧いてくるほどです。

もう一つ思うのは、このような不当な処分が出された場合に、それを覆すための被害者の負担の大きさについてです。
今回はなんとか再審査請求で判断をひっくり返すことができましたが、労災に遭った被害者にとって、ここまでの手間暇をかけなくてはならないというのは大変な負担ですし、それも弁護士の助力なしでは極めて困難なことだったに違いありません。
特に、外国人労働者にとっては言葉の問題もありますので、さらに大変なことです。
となると、労災として権利救済されるべき事案について不支給の処分が出てしまった場合、泣き寝入りせざるを得なくなった人が多く存在しているのかもしれません。
労災の場合、その後に民事賠償を控えていることもありますので、この場面で杜撰な不利益認定を受けてしまうと、民事賠償にも重大な影響が及びかねませんので、その不利益はさらに大きなものとなります。
労災は、判例の蓄積もあり、かつてに比べると認定基準は広がっていますが、個々の認定に関しては、恣意的ともいえる不合理かつ不利益な判断がなされることは決して稀なことではありません。
ですので、事故に遭われて、労災にあたる可能性がある場合、あるいはいったん不支給の処分が出たとしても納得できない場合には、諦めず、お住いの地域で労災が扱える弁護士に相談してみるようお勧めいたします。

2020年10月31日 > トピックス, 事件日記

日々雑感~「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちPART3

弁護士 折本 和司

「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちの「最終回」です。

前の2回と併せて、合計3つを取り上げるわけですが、「心に残った言葉」という視点であれば、いくらでもあるというか、面白かったり至極名言だと思えたりするような言葉は溢れ返っており、言葉という点だけでも「宝箱」のような作品でした

「感謝と恩返し」「施されたら施し返す。恩返しです」「おしまいDEATH」「おかげでファイト満々よ!」「記憶にないは国会でしか通用しません」など、脳裏に刻み込まれた言葉は拾い上げたらきりがないくらいです。

もちろん、原作からそのまま使われたものもあれば、脚本で加えられたもの、さらには現場で俳優の方たちがアドリブで付け加えたものもあったそうですので、その意味でも、原作者、監督、脚本家、プロデューサー、俳優の人たちの総力が結集され、化学反応を起こしてできた奇跡のようなドラマだったといっても過言ではないでしょう。

 

そんな中で、今回取り上げる「心に沁みた言葉」は、何といっても第10話、最終回のクライマックスシーンにおける半沢直樹の、魂の叫びともいえるようなあの言葉たちです。

最終回、半沢直樹は、簑部幹事長が設定し、テレビで実況中継され、大勢の記者が待ち構える場所に中野渡頭取に代わって赴きます。

そして、債権放棄の要請を拒否すると伝え、それに引き続いて、簑部幹事長の不正な錬金術を暴くのですが、その場から逃げようとする簑部幹事長を白井大臣が引き留めたところでその言葉は放たれます。

「政治家の仕事とは人々がより豊かに、より幸せになるよう政策を考えることのはずです」「今、この国は大きな危機に見舞われています。航空業界だけでなく、ありとあらゆる業界が厳しい不況に苦しんでいる。それでも人々は必死に今を耐え忍び、苦難に負けまいと歯を食いしばり、懸命に日々を過ごしているんです。それは、いつかきっとこの国にまた誰もが笑顔になれるような明るい未来が来るはずだと信じてるからだ」「そんな国民に寄り添い、支え、力になるのがあなた方政治家の務めでしょう」「あなたはその使命を忘れ、国民から目をそらし、自分の利益だけをみつめてきた」「謝ってください。この国で懸命に生きるすべての人に。心の底から詫びてください」

 

リアルタイムで視聴しながら、これは本当にすごい言葉だと感じました。

もちろん、半沢直樹のこの発言は直接には本作のラスボスである簑部幹事長に対するものですが、同時にそれは、今まさにコロナ禍で苦しみながら必死でそれを乗り切ろうとしている私たち国民の状況を目の当たりにしながら、およそ国民に寄り添った政治に取り組もうとしない今の腐りきった政治家たちに向けて、その姿勢を痛烈に批判する強烈なメッセージとなっていたからです。

 

正直、このドラマを見始めた時、7年間の空白により時代背景が少しずれてしまっているので今の時代にフィットするのだろうかという一抹の不安がありましたが、観ている内にその不安はものの見事に吹き飛びました。

しかし、この最終回のこの場面を観た時には、それどころか、このドラマは、まさに今の日本国民、日本の政治家たちに向けて作られたものだし、ここで放たれたメッセージはその集大成であると感じ、強い感銘を受けました。

 

半沢のセリフの内容を順にじっくり見て行くとその素晴らしさがわかります。

「今、この国は大きな危機に見舞われています。・・・ありとあらゆる業界が厳しい不況に苦しんでいる」とは、明らかに長引くコロナ禍で苦しむ今の日本の現状を念頭に置いたものでしょう。

続く「それでも人々は必死に今を耐え忍び、苦難に負けまいと歯を食いしばり、懸命に日々を過ごしているんです。それは、いつかきっとこの国にまた誰もが笑顔になれるような明るい未来が来るはずだと信じてるからだ」も同様で、それは紛れもなく今のコロナ禍で明日が見えない嵐の中で、必死に頑張っている人たちを励まし、鼓舞するメッセージとなっています。

 

そこから、半沢の言葉は為政者に向けられます。

「そんな国民に寄り添い、支え、力になるのがあなた方政治家の務めでしょう」「あなたはその使命を忘れ、国民から目をそらし、自分の利益だけをみつめてきた」は、今の政治家たちに対する、よりリアルで強烈な批判となっています。

翻って現実を見れば、この国で懸命に生きる人たちを守るために誰よりも額に汗しなければならないはずの政治家たちはいったい何をやっているのでしょうか。

政治のトップにいる人間が、政治を私物化し、国の行事を選挙のために利用し、お友達のために不可解な国有地の払い下げや学部の設立に手を貸したりとか、コロナ対策で意味不明のマスクを怪しげな選考経過で実績のない業者に発注したりとか、コロナ対策事業をおかしな法人を介して電通あたりに丸投げしたりする様は、まさに半沢直樹が指摘する「使命を忘れ、国民から目をそらし、自分の利益だけをみつめる」ものとしか見えません。

ほかにも、金で買ったとの疑惑もあるオリンピックやJR東海や土建屋のためとしか見えないリニア新幹線に膨大な国費をつぎ込み、さらにはカジノというギャンブル事業に入れ込む様は、もはや骨の髄まで・・・なのではないかと絶望的な気持ちになります。

また、本来、政治家とは一線を画すべき立場にあるはずの官僚たちも、その大部分は政治家の言いなりとなり、それに歯向かう勇気さえ失っているようです(ここでも「黒崎を見習え!」と声を大にして言いたいところです)。

実際、総理大臣の不正が疑われる事件で公文書の改ざんを指示し、部下を自殺に追い込んだ恥知らずな官僚や、総理大臣に近い人間の犯罪容疑で裁判所が発した逮捕状を執行しなかった腐った警察官僚が、ぬくぬくと出世しています。

ついでにいえば、安倍政権から菅政権に代わっても、その政権の本質は変わっていないと断言しておきます。

安倍政権下で起きた数々の不正に関する疑惑が解明に向かう気配はなく、また、菅政権では官僚に対する支配をさらに強めようとしているように見えるからです。

本の表紙を変えても、中身が変わらなければ意味がないのに、こんな目くらましでいとも簡単に支持率が大きく上昇することには強烈な違和感があります。

 

話が少し逸れましたが、半沢直樹の言葉は、まさにそういう政治家を断罪し、心ある政治家、あるいはそれを志そうとする人たちに勇気を与えるものです。

ドラマの最後で、白井大臣が幹事長に反旗を翻し、無所属でやり直そうとする様がさわやかに描かれていましたが、そのような覚悟を持った政治家が多数派になれば、間違いなく未来は明るいものになるのだと信じます。

逆に、無所属となった白井大臣が孤立し、簑部幹事長の同類が国政を牛耳り、利権をむさぼるという状況が、衣替えをしただけで続くようであれば、未来も暗く腐ったものに違いありません。

そう考えると、半沢直樹の言葉は、国民の不満や日ごろ感じているうっ憤を晴らすためなんかではなく、このドラマを見たひとりひとりの国民が、今の政治を変えるべく、自身の意識を変え、行動することを強く促すもので、私たち視聴者に向けられたもののように思えます。

おそらく、このドラマは録画され、またいずれDVDが発売、レンタルされることから、今後も長く多くの人が繰り返し視聴することになるでしょうが、半沢直樹の言葉に何かを感じた人たちが、この国の未来を良い方向に変える力を得るための起爆剤になるのではないかとさえ期待してしまいます。

 

こうやって振り返ってみても、このドラマには至言といえるような言葉が煌めいています。

このような作品を生み出してくださった原作者、プロデューサー、脚本家、監督、そして堺雅人をはじめとする俳優の方々に心から感謝したいと思います。

2020年10月11日 > トピックス, 日々雑感

医療事件日記~医療事件と「プレゼン」

葵法律事務所

先日、ある医療事件において、裁判所でプレゼンテーションなるもの(以下「プレゼン」といいます)を実施して来ました。
訴訟自体は、かなり進行している状況でもあり、裁判官の前で、事件で目を向けるべきポイント、証拠のあるべき評価などについて説明すること自体は「あり」だと思ったりもしたのですが、準備をしながらいろいろ感じたこともありますし、これからこの手法が大きく取り入れられる可能性もありそうですので、検証の意味で、「プレゼン」なるものについて取り上げてみます。

まず、プレゼンとは何ぞやということからですが、要はこれまでの訴訟の経過、双方から提出された主張書面や証拠を踏まえ、如何に自分たちの主張が正しいかをアピールするということで、企業などでは企画営業、コンペなどでわりと普通にあることと思います。
しかし、プレゼンが主張、証拠に基づいて裁判所に心証を形成してもらい、白黒をつけるという訴訟において相応しいものかということになると、現時点ではやはり疑問を感じるところもあります。
何よりも訴訟上の位置付けがはっきりしません。
実際、この点については今回の裁判官も言っていたのですが、プレゼン自体は証拠でもなく主張でもないからです。
もちろん、裁判所に「なるほどそういうことか」とポンと膝を叩いて納得してもらえれば何よりだし、準備をしている時はそんなことをイメージしていました。
ただそうなると、これまで主張や証拠を散々提出してきたけれど、もしかすると、このプレゼンの巧拙によって決着がついてしまうのではないかという感じで不安や疑問が湧いて来たのです。
でもまあ、やると決めた以上、準備をして臨むしかありません。

というわけでプレゼン当日を迎えました。
でどうだったかというと、相変わらずもやっとしたままです。
その事件のプレゼンが成功したかどうかは、裁判所が心証を明らかにしていないので現時点ではよくわかりません。
なのでそれ自体は別に良いのですが、プレゼン終了後にプレゼンの位置づけ、そこで語られるべき内容について、双方の代理人間で齟齬があることがわかったのです。
被告側は争点整理表に毛の生えた程度の、もっとシンプルなものをイメージしていたようです。
こちらは逆で、これまでの訴訟で双方から提出された主張書面や証拠のポイントを丁寧に指摘して自分たちの主張の正しさを示す手続という捉え方でしたので、かなり違ったものとなります。
で、裁判所ですが、双方の捉え方の中間というような言い方をしていました。
つまりプレゼンのイメージは三者間で共有できていなかったわけです。

ともあれ、裁判所がプレゼンを取り入れることを考えている以上、その適否、実施の際の手法といったことも含め、患者側代理人弁護士の間でもしっかりとした議論が必要といえるでしょう。
しかし、考えてみると刑事事件における検察官の論告求刑、弁護人の弁論は、早い話プレゼンですし、民事、行政訴訟などでも弁論を口頭で行うことはあり、それも口頭で伝えることで、裁判所にポイントを理解してもらおうという意味がありますから、早い話プレゼンなのです。
となると、今回の手続は法廷ではなく弁論準備室という部屋でやりましたが、法廷で堂々とプレゼンを行うことは、訴訟における正攻法としてのあるべき姿なのかもしれないと思った次第です。
そうである以上、弁護士ももっと「プレゼン能力」を磨かなくてはならない、そんな時代になりつつあると感じます。

実は、別件の医療訴訟でもプレゼン実施の話が出ていますので、それに向けて技術を磨きつつ、また経過、感想等をご報告させていただきたいと思います。

2020年10月04日 > トピックス, 医療事件日記
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