日々雑感~「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちPART2
前回に続いて、「半沢直樹」の中から、心に沁みた言葉を取り上げます。
今回は、第4話の中で半沢直樹が東京セントラル証券の部下たちに語り掛けた熱いメッセージです。
堺雅人がすごいのは、難しい長台詞を、本当に役になりきって画面を飛び越えるほどに力強く伝えきるところで、その真骨頂は、「リーガルハイ」でも観ることができます。
しかも聞くところでは、それをNGなしにやり遂げるというのですから、本当に信じられません。
才能もあるのでしょうが、何より見えないところで準備を重ねておられるに違いないわけで、心から敬服するしかありません。
とにかく、この第4話の長台詞でも、そんな堺雅人の演技の素晴らしさを堪能することができます。
この第4話は前半のクライマックスですが、取り上げるのは、あくどい連中に倍返しを成し遂げた半沢直樹が、いよいよ東京セントラル証券を去るにあたって、部下たちから促され、彼らにメッセージを残すというシーンです。
半沢直樹が伝えるメッセージは、バブル期以降の日本で何が起きていたかを知らない人たちにとっても強く心に響くはずですが、あの馬鹿げたバブルで何が起きていたか、その顛末を知っていれば、より深く伝わると思うので、前半部分と後半部分に分けて取り上げます。
最初、半沢直樹は、「勝ち組負け組」の話をします。
「勝ち組負け組という言葉がある。私はこの言葉が大嫌いだ」「だが、ここに赴任した時によく耳にした。銀行は勝ち組、俺たち子会社の社員は負け組だってな」「それを聞いて反発するものもいたが、大半は自分はそうだと認めてた」「大企業にいるからいい仕事ができるわけじゃない」「どんな会社にいても、どんな仕事をしていても、自分の仕事にプライドを持って、日々奮闘し、達成感を得ている人のことを本当の勝ち組というんじゃないか」
アメリカ的な新自由主義的な方向に舵を切った今の日本は、貧富の差が拡大し、階層が固定化してしまう、そんな社会になりつつあります(もちろん、そうした方向性そのものを変えるべきなのですが)。
ドラマの中で語られたこの「勝ち組負け組」という言葉は、一見すると企業社会におけることのように聞こえますが、今や社会全般で否応なく使われている分類用語ともいえます。
この言葉は自分がどこにいるかを意識づけさせてしまう悪魔の呪文なのです。
半沢直樹は、プロパーと呼ばれ、親会社の社員から蔑まれる子会社の人間たちに、その意識を振り払い、プライドを持って生きるよう勇気づけるのですが、「勝ち組負け組というカテゴライズに囚われてはいけない」というメッセージは、すべての世代に、すべての人たちに通じるに違いありません。
ドラマの中で、半沢直樹はさらに続けてこのような話をします。
「君たちは、大半は就職氷河期で苦労をした人間だ」「そうした事態を招いた馬鹿げたバブルは、自分たちのためだけに仕事をした連中が顧客不在のマネーゲームを繰り広げ、世の中を腐らせてできた」「その被害を被った君たちは、俺たちの世代とはまた違う見方で組織や社会を見ているはずだ。そんな君たちは10年後、世の中の真の担い手になる」「君たちの戦いはこの世界をより良くしてくれるはずだ」「どうかこれからは胸を張って、プライドを持って、お客様のために働いてほしい」
ここはさらに深い発言だと思います。
私が弁護士になった平成元年、日本はまさにバブルの絶頂期でした。
急激な円高に対する極端な金融緩和によってあり余った金が不動産や株式市場に流れ込み、異常な不動産価格の上昇、株高を招き、気が狂ったような異様なマネーゲームが繰り広げられます。
しかし、行き過ぎたバブルを調整するために取られた金融引き締め策の影響もあり、いびつに膨れ上がったバブルはいきなり崩壊します。
そして山が高かった分、谷はいつまで経っても底が見えないほどに深く、以後、バブル、そしてバブル崩壊の後遺症は重く日本社会にのしかかるのです(実際、弁護士の仕事の現場では、その後遺症はまだ終わっていないと感じることがしばしばです)。
ロスジェネ世代やゆとり世代は、紛れもなくその被害者です。
しかし、時代が変わり、彼らが世の中の担い手になる時が必ず来ます。
このドラマの中で、主人公が、バブルを招き、マネーゲームに狂奔した世代を痛烈に批判しつつ、次の世代に対して、「胸を張って、プライドを持って、お客様のために働いてほしい」と訴えかけるそのメッセージは、あの時代を演出した人間たちの愚かさを知れば、より重く、より深いものだといえるでしょう。
かつてのバブルは極端な金融緩和によって後押しされて起きたものですが、今の日本は、安倍政権における「異次元の金融緩和」なるものによって、多くの国民は実感できないものの、一部の大企業は間違いなく、不公正、不公平な形でその恩恵を受け、上げ底の株高、東京などの主要都市における不動産バブルをもたらしています(ドラマの中の「伊勢志摩空港」のような腐った錬金術は、まさに今の日本で現在進行形で起きている現実ともいえます)。
かつて見たあの景色と似たデジャブと感じるのは私だけではないはずです。
そうなると、次に起きるのは、異次元の金融緩和の反動であり、遅かれ早かれ必ずやって来る近未来です。
公正な所得の再分配がなされなくてはならないと強く思いますが、少なくとも、あの馬鹿げたバブルとその崩壊から何かを学び、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなくてはならない、そのためには自分たちの利益の追求のみに奔走するのではなく、お客様(他者)のために働くという姿勢をすべての人が共有する価値観にすることが大切なのです。
半沢直樹の作者である池井戸潤氏は、まさにそんな狂ったバブルとその崩壊を目の当たりにして来た元銀行員ですので、きっとそんなことを思いながら、この作品を作られたのでしょう。
原作のタイトルである「ロスジェネの逆襲」とはきっとそういうことなのだと思います。
「半沢直樹」のお話はまだ続きます。
日々雑感~「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちPART1
「半沢直樹」が終わりました。
個人的に堺雅人の大ファンということもあり、また前のシリーズが非常に面白かったので、今回は逃さずリアルタイム視聴しました。
一つのドラマすべてをリアルタイム視聴したのは生まれて初めてのことかもしれません。
始まる前は、前の作品の出来があまりに素晴らしかったこともあり、それを超えた作品に仕上げるのは大変なのではないかとも思っていたのですが、予想をはるかに上回る面白さで、ご多分に漏れず、現在は「半沢ロス」状態となっています。
面白かった要因は、原作が持つストーリーの重厚さと脚本の巧みさによるエンターテインメント性の高さ、そして個々の俳優の演技の素晴らしさにあるのだと思いますが、もう一つ心を惹かれたのは、節目節目で語られる「言葉の力」です。
主として、その言葉は堺雅人の口から発せられるもので、彼の演技力によってその言葉がより強く心を打つとも思うのですが、とにかく、この作品はきっと観る人の心に何かを残すに違いないと思えるのです。
というわけで、「半沢直樹」の中から、いくつか心に沁みた言葉を取り上げてみたいと思います。
まず、その一つ目は、最終回で、半沢直樹の妻である花が半沢直樹を励ます時のセリフです。
追い詰められ、いよいよ最後の行動に出る前の夫婦の会話の中で、花が、これまで懸命に闘ってきた半沢を励ますために発したものですが、その途中からを取り上げます。
「何があったか知らないけど、もう頑張らなくていいよ」「直樹は今まで十分すぎるくらい頑張った」「いつもいろんなものを抱えてボロボロになるまで戦って、必死で尽くした銀行にそれでもお前なんかいらないなんて言われるならこっちから辞表たたきつけてやりなさいよ。サラリーマンの最後の武器でしょ」「今までよく頑張ったね。ありがとう、お疲れ様」「ていう気持ちでいればとりあえず少し気が楽になるでしょ」「仕事なんてなくなったって、生きてればなんとかなる」「生きていれば、なんとかね」
この言葉に心を打たれた人は多かったと思います。
何といっても、この放映日の朝、女優の竹内結子さんが亡くなり、どうやら自殺ではないかとのニュースが流れたばかりでした。
お子さんを二人抱えながら、また女優として立派に成功したと見られている中で、なぜ彼女は死を選んでしまったのか、多くの人はショックを受けたと思います。
竹内結子さんに限らず、ここのところ、著名な俳優の方たちが続けて自殺しているということもありますが、おそらくこの花のセリフは、今の国民に向けられた励ましのメッセージだったに違いありません。
今回のこのドラマは、まさにコロナ禍の真っ最中にいろいろな制約を受けながら制作されたわけで、2~3か月のクールの作品でありながら製作期間は7ヶ月にも及んでいます。
このドラマではずっと撮影と並行してドラマの脚本が仕上げられていたとの情報もありますが、制作者たちは、コロナの影響が長引き、より深刻化して行く状況下で撮影と同時進行で作り上げて行かれたこのドラマの脚本に、コロナの影響で経済的に苦境に追い込まれ、苦しむ国民への想い、願いを籠めたのだと思うのです。
竹内結子さんについていえば、もし、彼女がもう一日思いとどまって「半沢直樹」を観て、花さんの言葉を聞いていれば、自殺せず、生きることを選んでくれていたのではないかという気すらしますが、花さんが発する言葉に勇気づけられ、また竹内結子さんのことと重ね合わせて涙した視聴者は多いと思います。
それほど、花さんの「生きてさえいればなんとかなる」という、一見何気ない言葉には力と深さが感じられるのです。
実は、このドラマの放映の後、友人と会っている時にも同じような話が出ました。
その時にこんな話をしています。
「実感としては、生きている内の99%の時間は苦しいけれど、残りの1%で報われると、『ああ、生きていてよかった』と思う。だから苦しい時間の方が圧倒的に長いかもしれないけれど、あきらめさえしなければその先には労苦が報われる時がきっとやって来る、そう信じればなんとかやっていける」
花さんの言葉の意味とは少しニュアンスは違うかもしれませんが、生きることの苦しさの向こう側にきっと明るい未来があると信じたいし、そのためには、もし今の場所がだめなら、命を絶つのではなく、逃げ出せばいいと思うのです。
花の言葉はちょっと長いセリフなので流行語大賞になることはないかもしれませんが、観た人に踏みとどまって前を向くきっかけを与える名言だと思います。
まだ取り上げたい言葉がありますので、続きはまた書きます。
事件日記~「保佐」の勧め
高齢者の財産や老後の生活を守るために、成年後見の利用が定着していますが、関連するものとして「保佐」という手続があります。
平たくいえば判断能力の違いなのですが、細かく見て行くと後見とはいろいろな違いがあり、要件さえ満たすのであれば、現実的な選択肢として「保佐」を利用すべきと感じることは決して珍しくありません。
そこで、後見との異同を踏まえつつ、どういう場合に保佐を利用すべきかについて述べてみたいと思います。
まず後見との違いですが、後見は裁判所において「精神上の障害により判断能力が欠いている」と判断された時に付されるのに対し、保佐は「精神上の障害により事理弁識能力が著しく不十分」と判断された時に付されるということで、両者の間には判断能力という点で明白な違いがあります。
ですので、後見人が選任されるということは、本人=後見人ということになり、契約などの法律行為については全面的な代理権を持つ後見人にしかできません。
一方、保佐の場合、保佐人は、選任の際に定めておく「重要な法律行為」に関する同意権や一定の手続を踏んだ上での代理権を持つという仕組みになっています。
また、選任手続の関係では、後見の場合と異なり、本人に一定の判断能力があるため、裁判所において本人の意思確認の手続が取られることになります。
もっとも、実際に保佐人に就任した後の保佐人のやるべき仕事は、日常的なところでは後見とほとんど変わりません。
年に1度の裁判所への報告や、不動産の処分や遺産相続の手続等、重要な局面での対応も、実際のところ、関わっていて違いを感じることはありません。
では、保佐利用のメリットはどこにあるかですが、一つは取消権です。
保佐人は、本人が単独で、たとえば騙されて不動産を処分するなどの不利益な契約を締結してしまったような場合、詐欺や脅迫といったことがあったかをいちいち問題とすることなくその契約を取り消すことができるのです。
つまり、保佐は、本人の財産を保全するための備えとして非常に有用であるといえます。
高齢者の方とお話をすると、意思疎通は普通にできても、近い時期のやりとりに関する記憶が曖昧であったり、複雑な部分の判断ができず、混乱されてしまうといった場面にしばしば出くわします。
そうした方の場合、契約に関する具体的な損得や適否の判断は難しいのですが、であるからこそ、高齢者を狙った詐欺や詐欺的商法が横行しているのです。
高齢者を狙った詐欺商法を防ぐためには、この種の犯罪に関与した人間は、末端の人間でも厳罰に処するような制度改革がなされるべきと思うのですが、とにもかくにも高齢者が被害に遭わないようにするための最も現実的な備えの一つとして「保佐」は有効といえます。
ところで、少し局面は異なりますが、保佐と後見の違いはほかにもあります。
たとえば、本人が一定の財産を保有しておられて、相続税対策が必要であったり、遺言を作成することが必要であったりという場合です。
後見人が選任されて以降だと、相続税対策での贈与などの法律行為はできませんし、遺言作成も基本的には難しくなります。
しかし、保佐であれば、そうしたことも可能です。
もちろん、これは判断能力に対する評価(具体的には医師の意見)によって定まることであり、メリットデメリットという観点でお話することではありませんが、ご本人や親族にとっては、タイミングによって後見ではなく保佐を選択肢に加えることは検討してみる価値があるといえるでしょう。
今や日本は超高齢化社会を迎えていますので、財産保全やいずれ来るであろう相続への備えといった観点から、後見の前段階ともいえる「保佐」の利用を検討する意味は大きいと思います。
ぜひご検討ください。
医療事件のお話~医療系の事件に関するセカンドオピニオンの勧め
前にもちょっと書いたことがありますが、医療系の事件を数多く扱っていると、ほかの弁護士さんからの相談を受けたりすることがしばしばあります。
私たち自身も経験がありますが、医療系の事件では、どうしても機序や過失の評価を検討する場面で医学的な難問にぶつかったり、問題点はわかっているのにその問題について適切な助言をもらえる協力医がなかなか見つからないなど、難しい状況に陥るということが少なからずあるからです。
実際には医療事件だけでなく、たとえば、交通事故における障害の評価や因果関係の問題といった場面でも医学的な検討が必要になるといったこともあります。
そんなわけで、そうした医療が関わる事件におけるセカンドオピニオンのことをちょっと書いてみたいと思います。
医療系の事件の大変さの一つは、医学の森の奥深さというか、真相に辿りつき、解決に至るまでの道のりで、幾度も幾度も、医学的な難問にぶち当たり、行き詰ってしまうという局面に出くわすということです。
当事務所では、原則として医療事件を複数受任とする主たる理由はそこにあります。
局面打開のためには、議論して知恵を出し合うことが必要だからです。
また、通常事件では、生の事実を把握すれば、それに対する法的評価を加えて行けばいいのですが(それでも判例や法解釈の検証が必要であり、簡単な事案ばかりではありませんが)、特に医療事件の場合、生の事実から医学的な事実(機序)を明らかにしていくことが必要なため、実際には、ミスの有無より前に、この医学的事実を解明していく場面での医学的な検討が最も大変な作業になります。
たとえば、お腹が痛いとか発熱があるといった生の症状だけでは、何に起因しているかは直ちに判断できません。
X線やCTなどの画像についてもそうですし、白血球などの検査所見も同様です。
また、原因疾患がある程度特定されても、必ずしも、典型的な症状が現れないこともあり、そうした典型的なケースとの「ずれ」をどう見るのか、矛盾なく説明できるかといったことも検証しなくてはなりません(実際、訴訟になると、医療側がそうした「ずれ」を指摘して、医学論争に持ち込まれることもあります)。
とにかく、個々の症例において、医学的な意味でいったい何が起きていたのか、結果に至るまでにどのようなプロセスをたどったのかを明らかにして行くことが大変なのです。
もちろん、過失や因果関係についても、同様に医学的な知見に基づく検討が必要となりますので、一山超えてもその先にいくつもの山が立ちはだかっているという気分になることは少なくありません。
そんなわけで、ある程度経験を積んでいても、医療系の事件は奥深く、本当に難しいと感じます。
さらに、手続的な局面局面での対応の難しさも、通常の民事事件とは異なるところがあります。
たとえば、カルテの証拠保全であるとか、鑑定意見書の作成の手順、協力医に確認すべきポイントのまとめ方、提訴後も、診療経過一覧表の作成方法、医療側の争い方に対する対峙方法、裁判所の訴訟指揮に対する向き合い方等、医療事件ならではの難しさがあります。
失礼な言い方かもしれませんが、裁判官が医療事件の扱い方を理解していないと感じることも少なくないし、手続の進め方においては、通常事件以上に緊張感を持って臨まないといけない場面に幾度も出くわすのです。
実際、カルテの証拠保全で裁判官とバトルになることはしょっちゅうです。
また、最近でも、ある裁判で医療側が明らかにおかしな診療経過一覧表を作ってくるので、「やり方が間違っている。それでは診療経過一覧表作成の目的にそぐわない」と何度も指摘したのですが、裁判官がまったく反応してくれないということがありました。
ところが、裁判官が交代したら、新しい裁判官は手続をよく理解していて、医療側にその点を指摘し、作成方法を改めるように指示してくれました。
とにかく、手続の各場面でどのように対処すべきかということで悩む頻度が高いのも医療事件の特徴の一つであるといえます。
ですので、もし、この記事を読んだ方で、事案の調査検討や手続のことで行き詰ったり悩んだりされている方がおられましたら、医療事件の経験豊富な弁護士への相談をすることをお勧めしますし、もし心当たりがないようでしたら遠慮なく当事務所までご相談ください。
遠方の方の場合、どのような形で助言ができるかということはありますが、微力ながらお力になれればと思っております。
医療事件日記~コロナ状況下の証拠保全手続
先日、当事務所で引き受けたある医療事件で、証拠保全に行ってきました。
申立自体は今年の春先に行っていた事件なのですが、その後、コロナによる緊急事態宣言の影響で、手続がストップしてしまい、申立から5か月近くが経過して、やっと証拠保全期日が実施されたわけです(通常は申し立てて1~2ヶ月以内には期日が入りますから、やはり異常事態ではあります)。
というわけで、コロナ状況下における証拠保全に関するご報告です。
コロナウイルス感染の広がりによって、最も重大な影響を被っているものの一つが医療機関であることはいうまでもありません。
個々の医療機関で実情に応じた対応を取っておられるわけですが、正直、患者の家族が見舞いに訪れることも制限されているところも多く、抜き打ちで実施する以上、当日、行ってみなければスムーズに進められるかどうかの予測がつかなかったりするわけです。
とはいえ、証拠保全は一発勝負ですので、事前のホームページのチェック、依頼者への確認などの下調べは、平常時よりは慎重に行っておかなければなりません。
それでも無事に証拠保全手続を終えることができるかについて、不安を抱えつつ臨むわけで、行く前から普段とはちょっと違う緊張感がありました。
その不安は出だしでいきなり的中します。
まず建物に入る時点で、ちょっとしたトラブルに見舞われたのです。
コロナ感染対策ということで、まず、病院の入り口で検温を受けるわけですが、なんと裁判官とカメラマンで来てくれた弁護士の体温がいずれも37度を超えていたのです。
2人ともだるさなどまったくないのですが、いきなり足止めです。
結局、普通の体温計を持ってきて正確に測り、最終的には37度を下回っていたことが確認できたので、無事手続には入れたのですが、もし、何度測っても37度以上であれば、証拠保全ができなくなっていたかもしれません(特に裁判官については、手続の主体ですから、完全にアウトだったでしょう)。
おそらく、この日は異常に暑かったので、開始前に外で待機している間に軽い脱水のような状況になっていたのではないかと思いますが、この足止めによって、初っ端からコロナおそるべしとなったわけです。
その後の手続でも、コロナの影響は続きます。
私たちが入れられた部屋には窓も何もなかったのですが、基本的にそこから出ないように、院内を移動しないようにと求められました。
続いて、作業の途中で、CT等の画像の存在が明らかとなり、それは別の場所のコンピューター内に保存されていることが明らかとなったのですが、こうした場合、通常であれば、そのコンピューターの設置してある部屋に行き、その場で操作してもらい、すべてのデータの出力を確認する手順となります。
しかし、別室への移動は避けてもらいたいとの要請があったので、それを受け入れ、医療側を信頼し、とりあえず、データをダビングしてもらうということで納得しましたが、これもコロナの影響ということになります。
もちろん、今回の事件では、画像データはさほど重要ではなかったので折り合ったわけで、もし画像が決め手の事件であれば、コンピューター本体を確認させてもらうよう強く求めたはずですが、とにかくいろんなところで通常とは違う事態に遭遇します。
今回の証拠保全で、最も支障があったのは、最後の場面で、事故が起きた部屋の内部の看視状況を確認しようとしたときのことでした。
医療側からは、不特定多数が出入りする場所なので、室内に入ることは遠慮してもらいたいと求められました。
そのため、部屋の入り口からの撮影となったのですが、奥行きのある部屋なので、内部の状況を正確に確認することはできませんでした。
事故が起きた当時とは室内の状況も変わっているという説明もあったので、それ以上固執することはしませんでしたが、ちょっと残念なことではありました。
しかし、事件のことは別として、医療現場が大変な状況にあることは、今回の手続でもひしひしと実感させられました。
実は、現在準備中の証拠保全案件もあるのですが、コロナの影響はまだまだ長引きそうで、事案の内容や保全の対象物によっては、保全手続に重大な支障が生じて、最悪、保全執行が不能となる可能性がないとも限りませんので、今の時期は、申立のタイミングも含め、慎重に準備、検討しなくてはならないと強く感じた次第です。