日々雑感~岡江久美子さんが亡くなられたことについて思うこと
女優の岡江久美子さんが、コロナウイルスに感染して亡くなられました。
ドラマや、クイズ番組、朝のワイドショー等でずっと活躍されていて、明るく親しみやすいキャラクターで多くの方に愛された女優でもあり、先の志村けんさん同様、本当にとても残念でなりません。
しかし、岡江さんの亡くなられるまでの経緯を知るにつけ、この死は避けることができたのではないか、人災なのではないかという気がしてなりませんので、そのことについて書いてみたいと思います。
コロナ危機が表面化して以降、政府や厚労省は、医療崩壊を招きかねないなどとして、検査実施につき、実質的にも手続的にも要件のハードルを上げており、安倍首相自らが一日2万件の検査が可能と言っていたにもかかわらず、未だに一日数千件の実施にとどまっていますが、この政策は間違いだということは、このホームページでもずっと指摘してまいりましたので、過去の記事を読んでいただければと思います。
実際、この間、全国各地で院内感染によるクラスターの発生が確認されていますが、誰が感染者かわからない状態で、病院内を人がうろつけば院内感染が避けられないことは、ちょっと考えれば子供でもわかるような話であり、院内感染の広がりは、検査の実施が不徹底であったことの結果といっても過言ではありません。
何度も書いていますが、コロナウイルスは、インフルエンザよりも発症までの潜伏期間が長く、しかもその間に感染するリスクが高いという特徴を持っているので、検査を徹底して感染者の洗い出しをしない限り、感染の終息は容易に見込めず、その間に国民生活も疲弊、劣化してしまうことは避けられません。
政府も、ここに来てやっと検査のためのハードルとなっていた指針を変更すると言い出していますが、これまで検査が十分に実施できていなかった理由について、安倍首相も加藤厚労大臣もまるで他人事のような言い逃れをしており、呆れてものが言えません。
このたびの岡江さんの死も、一人一人の国民の命を軽視し続けた政府の誤った政策による犠牲であり、同様の犠牲者がほかにも大勢いるに違いないと感じていますが、そのことについて、医療事件における法的な視点に加え、「感染症のリスク」という医学的な視点も交えて指摘したいと思います。
まず、報道によりますと、岡江さんの場合、4月3日に発熱があり、その時点では、主治医から「自宅で4~5日様子を見るように」との指示を受けたので、その指示に従い、検査を受けることなく、自宅で静養していたところ、3日後の朝までに急激に症状が悪化し、病院に搬送され、検査で陽性反応が出て、人工呼吸器をつけるなどの治療を受けたものの、治療の甲斐なく帰らぬ人となられたということのようです。
この中で最も重要な情報は、岡江さんが乳癌を患っておられ、直前まで放射線治療を受けておられたという事実です。
もっとも、問題は放射線治療より癌そのものにあります。
一般的に、糖尿病や癌などの持病を持っておられる方は、医学的には「易感染症患者」に分類されます。
「易感染症患者」とは、その字のとおり、健常な人に比べて感染のリスクが高く、また感染した場合に重篤化するリスクが高いとされる患者です。
癌について述べますと、元々、人間の体内ではごく普通に癌細胞が生まれて来るのですが、それが癌の発症に結び付かないのは、白血球中のナチュラルキラー細胞(NK細胞)などの免疫系細胞が癌細胞を退治してくれているからです。
ところが、免疫系は複雑なバランスの上に成り立っていて、大まかにいうと、体内に存在し、免疫系が暴走しないようにバランスを取っている免疫抑制細胞が、癌細胞の増殖とともに増加し、免疫系細胞の活動を強く抑制して、癌細胞への攻撃をブロックするため、結果として癌細胞がさらに増殖するという機序が存するとされています。
つまり、癌患者の体内では、免疫抑制細胞が多く存在しているため、体内の免疫は十分に機能しない状態に陥っていることになるのです。
現在、私は、感染症に関する医療事故案件を複数抱えており、コロナ危機が起きる少し前に、国内で著名な感染症の専門医に鑑定意見書を作成していただいていたのですが、癌患者が易感染症患者に分類されることについて、「癌患者や糖尿病患者などの易感染症患者の場合は、感染症を起こしやすく、さらにいったん感染症になるとより重篤化しやすいということが基本的な医学的知見である」「それゆえ、易感染症患者については、感染症の発症、増悪につきより厳重な診察と感染症対応が必要である」と明確な指摘を受けています。
翻って、今回の岡江さんの場合を見てみると、詳細な事情は不明ながら、主治医がもし岡江さんの癌のことを知っていたのであれば、易感染症患者に該当する以上、何はともあれ、検査の実施と病院内における厳重な観察へとリードしてあげるべきであったと思うのですが、その時点のPCR検査実施の実態からすると、それは医師の落ち度というよりは、検査の実施を拒否しているに等しいほどの高いハードルを設けていた国の誤った方針が招いた結果といえるように思います。
つまり、順序が逆であり、易感染症患者に該当する患者については、仮に症状的には軽かったとしても、まずは検査を実施し、陽性か否かの判断をすべきなのです。
そこで陽性の結果が出た場合には(岡江さんの場合は経緯からして当然に陽性となったはずですが)、仮に、その時点の症状が比較的穏やかであったとしても、「感染症を起こしやすく、さらにいったん感染症になるとより重篤化しやすい」易感染性患者である以上、何を措いても、入院を指示し、しっかりと感染症対策を取らなくてはならないことは自明の理であり、それは決して結果論ではなく、上記の感染症に関する基本的知見を踏まえれば、当然の論理的帰結なのです。
もちろん、検査の結果が陽性であったとしても、「易感染症患者」に分類されるような持病を有しない人、呼吸器系に問題がない患者は自宅待機もしくは相応の施設内での観察でいいわけですが、その判断のスタートラインは検査の実施であるべきなのです。
とにかく、岡江さんの場合もそうですし、同様に検査さえ受けれずに自宅待機のまま亡くなられた易感染症患者に該当する人たちについては、国の誤った指針によって「入院して適切な治療を受ける機会を奪われた」ことになるわけです。
コロナ危機の克服について、様々な形の活動の自粛であるとかいった努力の意味を否定するつもりはありませんが(ただ、そのやり方については異論もありますが)、検査のハードルを無用に高くしておいて感染者の扱いについて曖昧な方針を頑なに維持し続ける今の政府や厚労省のやり方ではいつまで経っても感染が終息しないでしょうし、岡江さんのような犠牲者がこれからも増えて行くのではないかということが強く危惧されます。
現時点でも岡江さんのケースは氷山の一角にすぎず、本当なら死を避けられたはずの方が国の政策の誤りによって、すでに相当多数犠牲になっている可能性が高いのではないでしょうか。
もちろん、検査が速やかに実施されていれば確実に助けられたかについてはケースバイケースかもしれませんが、弁護士の立場から見ると、検査の実施に関する誤った指針を頑なに続けたことで適切な治療の機会を奪った国や自治体の国家賠償責任が問われてもおかしくない、そのような実例が少なからずあるのではないかと思います。
医療事件を扱っていると、単なるヒューマンエラーというよりは、その背景にある疲弊した医療現場の実態であるとか、さらに医療を巡る様々の環境的な制約であるとかに目を向けなくてはならないと痛感することがしばしばありますし、そのさらなる背景として、医療費削減に偏った国の誤った政策が根っこにあると感じることも少なくありません。
今回のコロナ危機においても、検査実施の不徹底にとどまらず、医療者の不足、集中治療室、人工呼吸器などの必要な設備の不足という事態の改善を図ることなく、また、保健所の役割を軽視され、減らし続けてきたことなど、国が、国民にとって最も重要なセーフティネットの一つである医療を軽んじて来たという背景があり、そのしわ寄せで、患者が適切な医療を受けられなくなってしまっていることを私たちは決して見過ごしてはいけないと思います。
岡江さんのような被害者をこれ以上増やさないために、まずは検査実施の徹底、そして、この機会にこそ、一人一人の国民が適切な医療を受けられるべく医療の仕組みを再構築し、医療者が患者のために医療に打ち込める環境が実現されることを強く願わずにはいられません。
日々雑感~コロナ危機を脱するために取るべき政策PART1
コロナウイルスの感染の影響で町が死んだようになっています。
その影響はボディーブローのように、また波状攻撃のように私たちの生活を脅かし続けていますし、今後もそれはまだまだ続くものと予想されます。
しかし、政府の対策は相変わらず不十分で的外れなものといわざるを得ません。
ここで、今どのような政策が取られるべきかをちょっと書き記しておきたいと思います。
おそらく、人類は今後も繰り返し未知のウイルスと対峙せざるを得なくなるに違いないので、現在進行形で取るべき対策について、その都度整理しておくことには大きな意味があると思うからです。
まず、政府、厚労省が、依然として対応を渋っている(としか見えない)PCR検査の徹底という政策ですが、いろいろな意味で間違った対応です。
感染を鎮静化するという意味で重要な政策であることはいうまでもありませんが、いわゆる「出口戦略」という点でも、PCR検査に消極的な姿勢は決定的にまずい対応なのです。
つまり、検査を徹底しなければ、表向き、感染者が減ったように見えても、「まだ感染者がいるのではないか」という不安心理がいつまでも拭えず、国民が社会活動に積極的になれないし、経済活動を再開しなければ死活問題となる事業者に対し、不安を抱えた一般国民がバッシングを行うということが長く続いてしまうことになります(これもコロナウイルスの影響による自粛生活や今後への不安を抱える状況が長く続いていることによる鬱々とした状況の影響なのかもしれません)。
また、コロナウイルス感染の蔓延から起きた国際的な人、モノの移動の制限は、各国の航空事業を危機的な状況に陥れていますので、それぞれの国は、他国からの渡航制限処置が解かれるようにしなくてはならないところ、諸外国の数分の1、あるいは10数分の1しか検査が行われていない日本に関しては、他国からの渡航制限処置が解かれる時期が大きく遅れる可能性があります。
実際、アメリカ大使館は、日本国内にいる自国民に対し、日本国内における検査の不十分さ、情報開示の不十分さを理由に帰国を促すアナウンスをしていますが、「きちんと感染を抑え込んでいる」というアピールをするためには、その前提として検査の徹底は必須です。
このまま不十分な検査しかなされない状況が続けば、国際的な人やモノの交流に出遅れ、その結果、観光のみならず、輸出産業においても、コロナ危機以前に有していた海外におけるシェアを大きく失う可能性があります。
そうした面の国益を損なわないためにも、PCR検査の徹底は不可欠ですし、それとあわせて感染に関する情報の開示の徹底もやらなくてはならないはずですが、実際は真逆な対応になっており、この点も非常に大きな問題があります(日本の場合、元々、政府、官僚組織とも隠蔽体質がありますが、そのことはまた別に述べます)。
外務省は、広報予算を組んでとか言っているようですが、そういう問題ではなく、まず、感染に関する情報を遅滞なく、正確かつオープンに開示することこそが国民、そして諸外国の不信感を払しょくするためにやらなくてはならないことなのです。
長くなるので、PART2に続きます。
事件日記~労災事故の再審査請求手続
コロナ問題で大変な状況ですが、法律事務所のホームページですので、事件のことを取り上げなければと思います。
今回は、現在進行中の「労災の再審査請求」に関するご報告となります。
事件は、繁華街のとあるクラブ(女性が男性を接客する店の方です)で起きました。
男性客が女性店員に暴力を振るい、そのために女性店員は膝の十字靭帯損傷というかなり重い後遺症が残る傷害を負います。
当初は、経緯からして当然に労災が認められるであろうと判断し、加害者との示談交渉事件として受任しました。
ところが、予期に反して労災が認められなかったため、方針を変更し、労災の審査請求の手続を先行させることにしたのです。
労災については、管轄の労働基準監督署で申請し、それが認められなければ審査請求をすることができます。
この事件で争点となったのは、事故が起きた経緯と事故の内容でした。
労災が認められるためには、業務遂行性、業務起因性という要件を満たす必要があります。
つまり、業務遂行中に、業務に起因して発生した事故であることが要件となるわけです。
この事故が業務遂行中の事故であることは明らかですから、問題は、業務に起因するか否かということになります。
この点に関する労働基準監督署の認定は、「自招事故」であり、業務起因性がないというものでした。
そう認定した根拠は、加害者男性の言い分とその男性を接客していた女性店員の証言でした。
いわく、女性店員がスカーフを男性客の首に巻き付けて来たので、客がそれを振り払ったところ、足を捻ったのだというのです。
しかし、膝の十字靭帯損傷は足を捻った程度で生じるような怪我ではありません。
また、事件を目撃していた同僚が何人もおり、接客していた女性店員が男性客の振る舞いに困り、助けを求めたところを見ていたとのことだったので、その方々の証言を提出すれば、当然に労災と認定されるはずと判断し、その証拠を整えて審査請求を行いました。
ところが、労働基準監督署の判断は変わりませんでした。
正直驚いたのですが、そうなった以上、次の手続に移行せざるを得ません。
審査請求が却下されたことに対しては、労働審査会という上部機関に対する再審査請求という手続と行政訴訟という手続があります。
結論的には、再審査請求を選択したのですが、ここは正直悩ましいところです。
事案としては、当然に労災と認定されるべき事件だと確信していましたが、裁判の方が、その結論を得やすいものの、時間がかかりますし、費用の問題もありますので、ケースバイケースで判断することになります。
依頼者は歩行にも難儀している状況であり、生活も大変なため、まずは早期に結論が出るであろう再審査請求をということになりました。
再審査請求の手続では、事前に労基署に対する質問事項を送付しておくと、審査当日に、その回答を厚労省の職員が手続の中で、「朗読」するという段取りが取られます。
この事件の場合、「振り払っただけという被害者側の主張する行為で膝の十字靭帯損傷が起きるか否かについて医師に見解を求めたか」であるとか、「複数いた目撃証人に対する聞き取りを行わなかった理由」「加害者と同じ供述をしている女子店員の関係を検討したか」など、重要と思われる争点を示しつつ、それに関する労基署の調査の不十分さを浮き彫りにすべく質問を行いましたが、いずれについても、正面からの回答はありませんでした(正直、意味不明な回答もあったので、その点を質したかったのですが、なにせ、「朗読」をした担当者は、あくまで厚労省の人間なので、疑問点を尋ねても新しい答えは出てきません。まるで、決められたセリフしか言わないドラクエの村の門番みたいでした)。
ただ、審査会の手続では、審査委員との間で実質的に重要と思われる争点についてのやりとりを重ねることができました。
審査の時間も予定よりオーバーしましたし、追加の資料の指示もあったので、そうした準備を行った上で、意見書の提出を行ったのですが、それなりの手応えはあったように感じました。
現在は、再審査請求の結論が出るのをただ待つだけの段階ですが、コロナウイルスの影響もあり、少し時間がかかってしまうかもしれません。
もし、訴訟となれば、被告は国ということになり、相当なエネルギーを注がなくてはなりませんので、依頼者の負担を考えると、なんとかここで労災が認められればと思っています。
事件のことについては、いろいろと思うところもありますが、それについてはまたいずれ取り上げてみたいと思います。
医療事件日記~葵法律事務所では医療事件は複数受任が基本です
ここのところ、コロナウイルスのことばかりを記事に載せていましたので、久しぶりに医療事件のことを取り上げてみようと思います。
今回の記事は、当事務所における医療事件の受任の仕方に関するお話です。
タイトルにもあるとおり、当事務所の場合、医療事件については、複数の弁護士で受任することが基本となっています。
その理由についてご説明いたします。
前にもちょっと書いたことがありますが、弁護士の仕事は専門職でもあり、事件を扱う上で一定の知識やスキルが不可欠であり、それを身につけるために一定の実務経験を積むことが必要とされる職業であるといえます。
最近は、いきなり独立する弁護士や(最近の言葉では「即独」といいます)、給料をもらわないでスペースだけ使わせてもらう弁護士(最近の言葉では「ノキ弁」といいます)も多くなりましたが、勤務弁護士(いわゆる「イソ弁」です)で、給料をもらいながら経験を積むという昔ながらのやり方は、医療の世界における研修医と同じで、職業的なスキルを身に着けるためには合理的なものといえるわけです。
一般的な民事事件、刑事事件、家事事件に限らず、弁護士が扱う領域は幅広いですが、どのような領域においても実務的な経験値は必須です。
中には、そうした経験値をさほど積んでいなくてもきちんと事件処理ができる人もいるかもしれませんが、それにしても、事件処理のために様々な経験を積むことの有用性に変わりはありませんし、特に、医療などの専門性の高い領域では、一通りの実務処理経験を積んでおくことが非常に大切なのです。
最近でいえば、ほとんどの総合病院で普及している電子カルテに関するノウハウが、証拠保全、事案の検討、裁判の各場面で必要となりますが、このノウハウは、いくら頭で考えてもネットや文献を漁っても絶対に身につかないものです。
しかし、依頼者にとっては、弁護士に依頼をするという事態はそうそうあることではないので、弁護士が経験を積むための実験台になるわけには行きません。
そこで、特に医療事件の場合には、必ず、一定の経験を有する弁護士とセットで受任するようにしているわけです。
私たちも、医療事件をいっぱしに扱えるようになるまで、先輩、ベテランの弁護士と一緒に事件に取り組むことで、場面場面ごとのコツや事件処理のノウハウを身につけてきました。
そうすることで、ベテランの弁護士がこれまでに得て来た一定の経験、スキルを次代に引き継いで行くことができるわけです。
複数受任のメリットはほかにもあります。
医療事件は、作業量としても非常に多くなることがありますし、一人で取り組んでいると医学的な検討で行き詰ることも少なくありません。
作業を分担するという意味でも、行き詰りそうな局面を乗り切るためという意味でも、複数受任は極めて有効な手立てとなります。
実際、複数で引き受けていて非常にありがたいと感じるのは、専門医との面談の際です。
片方が質問をしている間、もう片方の弁護士がメモを取ったり、自分の方で次の質問を考えることができるので、二人がかりで医師と議論することで、より有用な意見をもらえる可能性が高くなるからです。
そういうわけで、当事務所では、医療事件を扱うにあたっては、事務所内の弁護士同士で組むか、事務所外の若手弁護士、一定の経験を持つ弁護士と組むかのいずれかのやり方で複数弁護士による受任が基本となっています。
ちなみに、当事務所の場合、複数受任となる場合でも、遠方に出掛ける場合の日当、交通費といった実費部分を除き、基本的な費用は変わりません。
ご参考にしていただければと思います。
日々雑感~国民を愚弄する安倍政権のコロナ対応に怒りの声を!PART2
前回の続きです(怒りのあまりの「である調」もそのまま続行です)。
今や、日本各地で感染爆発が起きているということを政府は認めないかもしれないが、すでにそうなっているという前提であらゆる対策を講じないといけない状況だ。
ただ、この問題の難しいところは、コロナウイルス感染の蔓延を防ごうとすると、国民生活や経済が致命的なダメージを受けてしまうことになるので、それをどうやってバランスを取るかということだ。
実際、ここまでの経過では、政府や自治体も、実体経済が麻痺しないようにという配慮ばかりを優先してしまっており(東京オリンピックの実施にも関連企業への経済的なダメージが大きい)、そのため、感染防止策が中途半端になってしまった結果、その間に感染が広がってしまい、収拾がつかなくなったことは明らかだ。
中途半端な政策でもって当面の実体経済の麻痺を防ごうとした結果、より重大で長期化しそうな実体経済の麻痺という事態を招いたといっても過言ではないだろう。
となると、もはやドラスティックな発想の転換をするしかないと思うのだ。
それは何かというと、ここまで来てしまった以上、今年は11ヶ月しかないのだと割り切り、これから1か月間、経済も交通も、必要最低限のものを除き、すべてストップさせるという方策だ。
なぜ1か月かというと、コロナウイルスの感染が2週間程度だという知見に基づけば、感染者が2週間、外部との関係を遮断したとすると、その間に家族が感染しても、家庭内の感染も含めて合計4週間で完治することが見込めるからだ。
いわば、「鎖国」ではなく、「鎖県」、「鎖市」、「鎖町」、そしてその究極ともいうべき「鎖家」といってもいいだろう。
もっとも、この政策を実施するにあたっては、その見返りとして、すべての労働者、事業者に対し、1ヶ月分の収入、売り上げを補償することがセットとして必須だ(もちろん、細かく見て行けば、たとえば、テナントを借りている事業者が補償を受ければ、賃貸収入を得ている賃貸人はそこから払われるので、補償の対象外となる人は出て来ることにはなるが)。
安倍政権は、緊急事態宣言をしながら(ちなみに、私は緊急事態宣言には反対の意見だが、それは、今回の「口先」の緊急事態宣言のことではないし、今の危機を乗り切るための政策は、そんな宣言とは関係なく、国会で議論して立案、実行可能なはずだ)、営業の自粛を要請するのみで、休業補償には消極的だが、そんな中途半端でせこい対応をしているから、営業自粛をすることで死活問題となる歓楽街の飲食店や性風俗店とすれば店を開かざるを得ないし、いつまで経っても感染の広がりを抑えられないという悪循環が止まらないことは目に見えている。
そんな状況が続けば、体力的に持ちこたえられなくなった事業者が次々と倒産、廃業に追い込まれ、失業者も爆発的に増大する結果となり、生活保護受給者も激増して、金がない以上、消費はさらに落ち込むから、家や車なども売れなくなって内需が破綻した結果、大型倒産が相次ぎ、税収が激減してしまうという国家にとっても最悪な事態(そうなると、さらに通貨危機さえあり得なくはない事態だ)が待っているだけだということになぜこの国の為政者たちは気づかないのだろうか?
とにかく、日々の国民生活のために必須な食料、日用品などの入手のプロセスであるとか、医療、福祉に関することを除き、すべての事業を1か月ほど(暦から抹消して)停止し、その分を国がすぐに補償すべきなのだ(もし、1か月後に収まっていなければ、延長しなくてはならないが、危機を乗り切るためにその時点で柔軟に考えればいいことだ)。
さらに、国がなすべき政策は、「消費税廃止」と「新たな雇用創出」だ。
1ヶ月の「鎖国」~「鎖家」で、感染爆発を食い止めたとしても、コロナウイルス感染の完全な終息は不可能だ(コロナウイルスの最も厄介なところは、グローバルに、しかも時間差で発生、拡大が繰り返され、延々と続くことで、グローバルな人やモノの移動がある限り、特効薬ができて行き渡るまでは、完全に感染を断ち切ることはできないからだ)。
それゆえ、その後の国民生活を支えるための政策は必須だ。
その点、消費税ゼロ政策は、国民の生活不安を持続的に和らげることにつながるし、それが消費行動を呼び起こし、事業者の破綻をも防ぐことになるはずだからだ(特に、消費税には逆進性があるから、消費税廃止は収入が低い人に有効な政策だ)。
あと、フランスでは、農業従事者を募集したら20万人応募があったという記事があったが、それを見習って、「雇用創出」を図るためのドラスティックな政策を考えるべきだ。
その点でもう一つ指摘するが、これから、国際的な人やモノの移動が難しくなる可能性があるので、この機会にこそ、食料や日用品の自給率を上げるための「構造変革」的な政策を打ち出すべきだ。
特に、食品自給率が異常に低い日本にとって、農業や漁業に力点を置いた構造改革こそ、雇用創出と自給自足経済の実現につながるという意味で、100年先のこの国の未来を守るための「真の構造改革」だといっても過言ではないだろう。
とにもかくにも、今の政府にはこのような視点が全くないのが本当に腹立たしいが、コロナウイルスがもたらした唯一の光明は、「(コロナウイルスという」疾風によって(安倍政権が)勁草でないことを知る」ことが出来たということだ。
こんな政権は今すぐにでも総辞職して、与野党の有志が集まり、「コロナ危機脱出内閣」を作ってもらいたいと強く思う今日この頃なのだ。