日々雑感~財務省による公文書書き換えの件
森友問題で、財務省が公文書を書き換えていたとの報道が政界を大きく揺さぶっています。
しかも、書き換えられたとされているのは、森友学園の特例扱いに関わる部分や、価格提示に関わる部分で、森友学園疑惑解明の鍵ともなり得る記述のようですから、意図的な書き換えが疑われるのは当然といえるわけです。
そして、もし意図的な書き換えがあったということになれば、有印公文書変造罪というれっきとした犯罪行為にあたる可能性もありますし、森友問題に関する疑惑の解明にも直結するような事態にもなるかもしれません。
さらに、この問題は、財務省だけの問題なのか、元々の経緯からすると、安倍政権の中枢部に疑惑が飛び火する可能性も秘めているように感じます。
ところで、この公文書書き換え疑惑の報道を見て、私が関わったある事件のことを思い出しました。
それは神奈川県内のある美しい森を守るために活動している地元の方から依頼された事件でのことだったのですが、依頼者の方は、環境破壊を伴うマンション計画に地元の自治体が協力を約束したことに疑問を抱き、情報公開請求に踏み切りました。
ところが、この情報公開請求の中で、不可解なことが起きたのです。
経緯は以下のとおりです。
まず、最初に自治体側から公開された事実経過表のような文書では、記された関係者の氏名が「個人情報にあたる」などの理由で黒塗りになっていたのですが、審査請求(不服申立)を行ったところ、審査会において、その一部については「個人情報にあたらない」として公開相当の判断が出たのです。
この時点で、私たちの手元には、最初に公開された「人名がすべて非公開の文書」と、審査会の判断を経た後の「一部の氏名が公開された文書」の2つが存在していたことになります。
この事件は、その後訴訟になるのですが、訴訟の最終局面になって、この2つの文書が似て非なる別物であることが明らかとなりました。
両者は見た目にはそっくりなのですが、仔細に見比べると、片方の文書の中の中間辺りの行の終わりにある字が、もう片方の文書では、なぜか次の行の頭に来ているのです。
いうまでもなく、公開される公文書は、保管されている特定の文書ですから、同じ文書について、黒塗り箇所を変更しただけなら、絶対にこのようなことは起こりません。
にもかかわらず、どうしてこのようなことが起きたのかですが、おそらく、審査会の審査の時点で「似て非なる別物」を作らざるを得ないという判断が行政内部でなされたのだと思います。
というのは、審査会の手続では、文書の非公開部分を、弁護士も含めた外部の委員が確認して公開の要否を判断しますので、その際に、行政側からすれば、「最初、非公開とした氏名の中に、どう見ても『個人情報』にあたらず非公開相当とはいえない、しかし、どうしても公開したくない人物の名前があった」ため、苦肉の策として、審査会による確認がなされる時点で氏名の部分を別人に書き換えた第2の文書を作ったということではないかというわけです。
その事件で、記述の明らかな矛盾に気づいた時、私は、中立であるべき行政がここまでやるのかと驚きましたが、あらためて考えてみると、今の硬直した行政組織は、時に、中立公正であることより、組織防衛や上の言いなりになって保身を優先することを辞さない、誇りも矜持もない連中に牛耳られているのかもしれません。
その事件で地方の一自治体で起きたことと、今財務省で起きていることは、同根であり、行政組織が、本来あるべき姿を失いつつあることの表れのような気がするのです。
森友問題や加計問題は、為政者が不公正な手法を用いて、特定の利害関係者に国民の財産を法外に安い値段で売り渡したり、便宜を図ったりすることが許されていいのかという問題であり、お隣の韓国では、同じような問題が発覚して、大統領が職を追われ、刑事裁判の被告人となりました。
翻って、日本では、組織ぐるみで、寄ってたかって不正を覆い隠そうとして醜悪に足掻いているように見えます。
行政組織に所属する人たちに強くお願いしたいのは、上の言いなりになって、組織防衛、自己保身に走って出世するよりも、たった一度の人生なのですから、公務員としての誇りと矜持を失わない、そんな生き方を選んでほしいということです。
そうした勇気ある人が一人でも多く現れれば、この国も良い方向に変わっていくのではないかと、心からそう思うのです。
医療事件のお話~合併症と医療過誤
医療事故が起きた後、医療側から「承諾書の中に記載された合併症であり、医療ミスではない」という説明がなされることがあります。
しかし、この説明は、厳密にいえば不正確でもあり、また、遺憾なことではありますが、時に医療側が意図的に、医療ミスであることを糊塗しようとして、このような説明を行うことも少なくありません。
今日は、そのことについて述べてみます。
そもそも、合併症という言葉は、やや多義的で、曖昧なところがあります。
特定の病気に関連して起きる疾病のことを合併症と呼ぶこともありますが、ここでは、医療過誤か否かの観点での分類ですので、手術や検査等を実施した後に、その関連で起きる疾病という意味で用います。
この定義を踏まえれば、合併症が医療過誤にあたるか否かは、合併症あるいはその後に続く悪い結果が医療者のミスによって発生したのか否かによって決まるのであって、承諾書の中に記載されていたか否かによって決まるわけではありません。
たとえば、開胸、開腹等の手術を実施した際に、主要血管を損傷して死亡に至ったという症例を想定してみてください。
血管の損傷やそれによる出血自体は、通常、承諾書の中に合併症として記載されることも多いのですが、この主要血管の損傷が医療者のミスによって生じた場合、あるいは、その後の対処に医療者のミスがあり、悪い結果が生じた場合は、血管の損傷やそれによる出血自体が、承諾書の中に合併症として記載されていたとしても、当然に医療過誤となるのであり、医療側は法的責任を負わなくてはなりません。
つまり、手術などの後に生じた悪い結果が、医療ミスによって生じたものか否かが重要なのであって、それが手術の承諾書に記載された合併症の範疇に属するか否かという区分自体は、法的責任の有無を判断する上では何の意味もないことです。
したがって、事故後に、医師から説明を受ける際には、合併症という言葉に惑わされることなく、なぜ悪い結果が生じたのか、そこに医療側のミスが介在していないかという観点で、説明の場に臨み、事故を検証して行くことが肝要なことなのです。
日々雑感~自己破産に関連するニュースを目にしてPart2
Part1に引き続いて、自己破産に関するニュース報道を見て感じたことについて述べようと思います。
Part1でも触れましたとおり、昨年の自己破産申立件数は前年に比べ6・4%増加し、7万件弱になっているというこの状況を分析してみると、金融機関の貸出金利が大きく下がっているにもかかわらず、破産者が増えつつある理由としては、日本における貧困化傾向が大きく影響しているというのが、破産事件を扱う中での私たち弁護士の実感であり、だとすれば、現状は、かつてのバブル崩壊後の長期不況の時よりも、もっと深刻なのではないかとも感じています。
そのことを強く示唆するニュース報道があります。
それは、借りた奨学金が払えなくて自己破産を申し立てる人が増えているという報道です。
親が保証人になっているケースも多いので、その場合は、親も含めて破産に追い込まれることになります。
そうした人の数が平成26年は過去最高になったというのです。
奨学金受給者全体に対する破産者の比率は非常に低いというデータやそうした観点からの反論もあるようですが、考えてみれば、奨学金制度では、返済の方法も比較的緩やかに設定されているわけですし、通常は親が保証人となっていますから、そうであるにもかかわらず、破産を選択せざるを得なくなる人が増えているということは、前途ある若者が社会に出てヨーイドンの段階で経済的に厳しい状況に追い込まれてしまっていることを意味するもので、非常に由々しき事態ではないかと感じます。
もちろん、奨学金をもらって学校を卒業しながら破産に至る事情は様々でしょうが、ここでも現在の労働者が置かれた状況の不安定さや、子供を養って来た親の経済事情が大きく影響しているに違いありません。
中でも、高校、大学等を卒業し、社会に出た若者にとって、収入の安定は生活基盤を形成する上では本来必須の要素であり、それが、たとえば、正規雇用でも低賃金であったり、ブラック企業で辞めざるを得なくなったり、非正規等の不安定雇用しか選択肢がなかったりとか、とにかく、奨学金を安定して返済し続けることを妨げるであろう労働現場の深刻な実態は、過労死事件等の報道によってすでに明らかになっているとおりです。
誤解を恐れずに言えば、これから社会に出て、意義のある仕事をし、また家族を養って行くために、どうしても大きな障害になるのであれば、前途ある若者が、破産という法的に認められた手続を積極的に活用して、重い荷物を下ろすことをためらう必要はないと思います。
もちろん、私たち弁護士の中にも、奨学金をもらうことで未来を切り開けた人は大勢います(当事務所のメンバーの中にも奨学金のお世話になった人はいます)ので、奨学金制度そのものの意義については、何ら疑うところはありません。
しかし、大企業が莫大な内部留保を抱えている一方で、一般庶民の貧困化が一段と深刻化している今の日本の現状を踏まえれば、高校、大学を出た若者が夢を描けないまま、低賃金の中で返済に追われるという状況は、かなりの部分において、個人の責任に帰するようなことではなく、社会全体の仕組みに大きな問題があるとしか思えません。
破産者の増加は、社会のひずみの結果であり、その原因が何であるかに目を向け、そこを変えて行かなければならないと強く思います。
そのような意味もあるのですが、破産についてはもう一つ別の報道を目にしたので、さらにPart3へと続きます。
日々雑感~自己破産に関連するニュースを目にしてPart1
最近、自己破産に関するニュース報道をいくつか目にしました。
自己破産事件は、私たちのような「街弁」にとっては、日常的に身近で関わりのある領域ですので、ニュース報道を見て感じたことを述べてみたいと思います。
まず、昨年の自己破産申立件数が、前年に比べ6・4%増加し、7万件弱になったというニュースから取り上げてみます。
前年も微増していますので、増加傾向を示していることになります。
そのことについて、「バブル崩壊後のピーク時に比べると件数としては全然少ないから、あまり大騒ぎするようなことではない」という論評もありましたが、このような楽観的な論評は、現状を正確に理解していないものと考えます。
バブル崩壊後のピーク時と現在の状況は、破産に至らざるを得ない背景や負債の実態が全く異なるからです。
たとえば、バブル崩壊後、自己破産申立事件が多かったのは、バブル崩壊による失業、財産の目減り、銀行の貸し出し金利が非常に高かったこと、とりわけサラ金の金利が利息制限法の上限金利よりかなり高かったことなどの事情が複合的に絡んでいます。
しかし、現在の状況を見ると、たとえば、バブル崩壊後のような極端な財産の目減りという事情はありませんし、負債という点で見ても、住宅ローンなどの貸し出し金利は超低金利、サラ金の金利も利息制限法の上限金利に抑えられ、総量規制もありますので、一見すると、かつてのように借金があっという間に雪だるま式に膨れ上がるという状況ではなくなっています。
実際、バブル期に不動産を購入して、以後ずっと真面目にローンを返し続けても、10%を超える高金利だったため、元本はあまり減っておらず、不動産の方は価値が極端に目減りして破産に追い込まれるというパターンが非常に多かったのですが、現在の状況にはこれはまったくあてはまりません。
超低金利となり、サラ金の貸し出し利息も大きく下がっているにもかかわらず、破産に追い込まれてしまう事情が何かといえば、個別の要素はあるにせよ、やはり収入の不安定さ、そして、たとえば、正社員であっても実質収入が年々減少していて、生活を維持できるほどの収入が得られないといった、より深刻な要因がかなりを占めていると感じます。
株価も上昇し、大企業の内部留保も桁違いに膨れ上がるなど、一部には景気のいい話も聞かれてはいますが、国民の間の経済格差は広がっており、生活保護受給者も増大の一途をたどっています。
社会政策的に見ても、戦後の高度成長期も含め、日本は低賃金構造であると言われ続けて来ましたが、特に最近の日本は、垂直的な所得の再分配が健全に機能しておらず、非正規雇用、現業派遣といった調整弁的雇用が企業側に都合よく利用されていて、詰まるところ、日本の低賃金構造は、より悪い方向で定着してしまっていると感じざるを得ません。
そうした日本の経済構造のいびつさが、一般国民の生活を蝕んでおり、その結果が、破産申立件数の増加という事態を招いていることは明白だと思います。
実際に私たちが扱う破産事件においても、実感としては、生活保護を受けている方の比率は間違いなく非常に高くなっています。
正確な統計は承知していませんが、おそらく、統計上も破産事件に占める生活保護受給者の割合もその人数もここに来て大幅に増えているのではないかと思います。
そのような実態や原因をきちんと分析して、世の中の仕組みを大きく変えて行かなければ、多くの国民の生活はますます疲弊し、破産申立件数も生活保護受給者も増加の一途をたどるのではないかと暗澹たる気持ちになります。
自己破産に関しては、ほかにいくつか気になる報道もあり、ここで取り上げるつもりでしたが、長くなりましたので、続きはまた書きたいと思います。
事件日記~予防的刑事弁護のお話
昨年は、葵法律事務所の弁護士は、全員、刑事弁護にかなり多く取り組んだ一年となりましたが、実際に事件に関わって強く実感することは、いったん、刑事事件の被疑者、被告人となってしまうと、受ける刑事処分のみならず、一人一人の社会生活で受けるダメージがとてつもなく大きくなってしまう場合があるということです。
現に、逮捕勾留によって仕事や家族とのつながりを失ってしまうということもありますし、少年事件であれば退学処分、外国人であれば、在留資格を失い、国外退去処分となることもあります。
まさに生活の基盤を根こそぎ奪われる状況に追い込まれてしまうことも事案によっては十分に起こり得ることなのです。
そうしたぎりぎりの状況の中で刑事弁護活動をしながらよく思うことは、もっと早い段階で対応できていればよかったのにということです。
特に被疑者段階では、身柄拘束に入ってしまうと、逮捕から最大で3週間で、起訴か不起訴の判断が出てしまいます。
本来は、およそ刑事処分を受けるような事件ではないのにとか、なぜこんなことで逮捕勾留に至ったのかとか、いろいろと疑問を感じるような事件もありますが、それでも起訴されれば間違いなく有罪となってしまう事件であるとか、有罪となれば実刑を避けられないという事件だってあるわけです。
そのため、私たちも、弁護人となれば、犯した罪以上の過大な不利益が生じないよう、頑張って弁護活動に取り組むのですが、そうはいっても、時間的制約が伴う逮捕、勾留後では、主導権は捜査機関側が握っていますし、また、最近は被害者のプライバシーを尊重するということで、被害者側の情報を得ることが容易ではなくなっていることもあったりなど、弁護人としてできる活動にはおのずと限界があります。
限られた時間の中で刑事弁護に取組んでいると、壁にぶち当たる感じようなジレンマをしばしば感じるわけです。
その一方で、私たちが扱う事件の中には、これは対応を誤ると刑事事件になるということがある程度予測できるものもあります。
実際の事件でも、このまま対応しないでいると刑事事件化してしまうことが予期できて、早めに被害者側と折衝し、示談を行うなどして、事なきを得ることができたケースは決して稀なことではありません。
そう考えてみると、このような弁護士活動も、広い意味では「刑事弁護」にあたるといえるでしょう。
もちろん、弁護士の仕事は、民事事件でも刑事事件でも、事件が起きてからの対応が中心とはなりますが、事件化を防ぐための予防的な活動もまた非常に大切で有意義な仕事であることは間違いのないところです。
たとえば、民事事件でも、依頼者がある契約を締結しようとするときに、その契約書を事前にチェックして訂正を助言してあげれば、その後に依頼者が、不用意な契約による不当な不利益を受けないで済むようにできるわけですが、刑事事件も同様です。
ですので、もし、今後トラブルが顕在化すれば刑事事件になるかもしれないいう状況に陥った場合には、早めに弁護士の助言を受けられることは非常に有用なことだと思います。