日々雑感~宮崎駿監督が「君たちはどう生きるか」で伝えたかったこととは?
宮崎駿監督(以下、敬意を籠めつつ敬称略とします)の「君たちはどう生きるか」を公開初日の夜遅くに観てきました。
「未来少年コナン」のころからのファンで、宮崎駿の考え方や創造性に共感してきた私としては、引退を撤回して彼が制作に臨んだこの作品(まあ、引退撤回は今回が初めてではありませんが)は絶対に観ようと思っていたので、夜遅くではあったのですが、思い切って足を運んだ次第です。
というわけで、この作品について個人的な感想を述べてみたいと思います。
この作品については、事前情報がほとんどなかったこともありますが、実際に観た人の感想を見ても、「よくわからない」といったコメントも多いようです。
私も、正直、観終えた瞬間は、頭の中に、もやもやっとした感じがあって、消化しきれていないというか、いったい何を描きたかったのだろうか、伝えたかったのだろうか、さらにはエンターテインメントしてどうなのだろうかといったいくつものクエスチョンマークが頭の中を駆け巡っていました。
ただ、少し経ってから、映画のシーンをあれこれ回想しているうちに、ふと思いついたことがあります。
それは、「君たちはどう生きるか」の本が出てきた場面の意味についてです。
あまり書くとネタバレになるので気をつけますが、あの場面にはやはり特別な意味があったのではと思うようになったのです。
映画の主人公である真人(まひと)は、お母さんの死を心情的に引きずっており、心の中に「虚無」が潜んでいる少年でした(この「虚無」は「風の谷のナウシカ」の漫画版でもしばしば強調されています)。
実際、そこまでの彼の振る舞いは、何処か醒めているというか、諦めているというか、とにかく、人と深く関わることを拒絶し、殻に閉じこもっていました。
しかし、「君たちはどう生きるか」という本を手に取って読み、そのあと、彼は涙を流すのですが、そこから彼は明らかに変わり始めます。
映画の中では淡々と描かれていて、特に言葉で語られるようなことはないので、何気に見過ごしていたのですが、あとで全体を振り返ると、やはりあの場面こそが転換点だったと思うのです。
彼がその本を手に取って読んだのは、ある理由でその本が彼にとって特別の価値があったからですが、とにかく、彼はその本を読んでからほどなく異世界に飛び込み、そこでいろいろなものに遭遇していく中で、段々と心の中の「虚無」を振り払って、周りにいるものや世界そのものを救うために抗う人へと成長し始めるのです。
もっとも、この異世界の冒険というのが、これまでの宮崎駿ワールドの既視感満載の、何とも摩訶不思議なファンタジーで、未だによくわからないところがあります。
特に、主人公と一緒に異世界で戦うヒミですが、彼女がなぜ登場したのかすら未だによくわかりませんし、ほかの登場人物や塔の意味なんかについてもわからないところがいっぱいあります。
いずれ、このあたりが理解できたら、またこの映画の評価はさらに変わるような気もしていますが、そのあたりの「深さ」というか「わかりにくさ」もまた、宮崎駿たる所以なのでしょう。
ただ、何にせよ、「君たちはどう生きるか」の本を読む前の主人公と読んだ後の主人公の「生き方」「生きる姿勢」の変化こそが、宮崎駿が描きたかった重要なメッセージに繋がっているという気がしてなりません。
さらにそのことについて考えてみました。
本作品の数少ない事前情報の一つだったのですが、宮崎駿自身、この映画のタイトルとなっている「君たちはどう生きるか」という吉野源三郎の著作を若いころに読んですごく影響を受けたのだそうです。
もしかすると、私にとってのジョンレノンのような存在かもしれませんが、人生においては、生き方に影響を与えるような何かは誰にでも起こり得るわけで、宮崎駿にとっては、それが「君たちはどう生きるか」だったのかもしれません。
吉野源三郎という方は、戦中戦後を通じてずっと反戦平和を訴え続けた人物として知られており、宮崎駿の生き方や価値観と相通じるところがあるように感じますが、とすると、主人公の真人は、宮崎駿が自身を投影した存在とも捉えられるわけで、彼自身の自伝的な意味合いがあるようにも思えます。
ただ、それ以上に思ったことは、宮崎駿は、この作品を誰に観てほしいのだろうかということについてです。
彼は、映画を創る時、よく、それを誰に観てほしいかという話をしていました。
彼のこれまでのそうした発言からしても、引退を撤回してまで創ったこの映画においてもそんな思いを巡らせながら制作に臨んだに違いないと思うのです。
そして、彼がこの映画を観てほしいと思った相手ですが、とりわけ迷える10代の人たちにこそ、この映画のメッセージを届けたかったのではないかという気がするのです。
実際、本作で主人公が少年だということはやはり特別な意味があるように思います。
というのは、今の日本は、特に若い世代にとって、将来に向けて夢や希望が持てない、閉塞感に満ちた、不公平で不条理な社会だからです。
金や権力を持ち、あるいはそれらにすり寄ってうまく立ち回った人間だけがいい思いをし、大手を振って歩いている、それが今の日本であり、その一方で、誠実に生きたくとも、未来に夢を描けない若者の自殺が増え続けているのが現実です。
そんな若者に対して、「人生を変えるきっかけになるものは確かに存在するのだ」ということを伝えたいのではないかと、そんな気がするのです。
不条理な現実を受け入れ、不満や不安を抱きつつ、妥協を重ねるであるとか、あるいは、現実や将来を悲観して死を選ぶ若者の心には「虚無」が潜み、じわじわと蔓延っているような気がしてなりません。
そうした心の中の「虚無」を振り払い、前を向いて、何か大切なもののために抗い、道を切り開いて行く、そんな生き方を見つけるためには、何かのきっかけが必要だけれど、それはすぐそばにあるのだと、そんなことを訴えているのではないでしょうか。
かつて少年だった宮崎駿にとっては、「自分にとってのきっかけは『君たちはどう生きるか』だったんだよ。だから君も何か、自分を変えるきっかけを見つけて」と、感受性豊かで、時に絶望して死を選んでしまいかねない若い世代の人たちに、そう伝えたかったに違いないとそう思うのです。
この映画はすごく内省的なところもあり、描かれている異世界も、もしかしたら宮崎駿の頭の中の出来事なのかもしれませんが、そこで訴えているメッセージは普遍的なものだと感じます。
賛否両論ある作品ですが、映画の中で起承転結が完結してしまう作品よりも、観終わった後に、それぞれの視点で深く考察し、検証していくことができることの面白さという意味でこの映画に優るものはないのではないかというのが私の評価です。
ですので、観終わった直後の評価は60点くらいだったのですが、いろいろと思い返した今の評価は90点に跳ね上がっています。
未観賞の方は、ぜひ身近な友人と一緒に観て、感想を語り合い、明日への糧にしていただければと思います。
日々雑感~「不貞」と「不倫」の違いとメディアの取り上げ方に対する疑問
芸能ニュースとかはあまり見ないのですが、しばしば取り上げられる芸能人の「不倫」絡みのニュース(正直、個人的にはこのようなワイドショー的な話題をニュースと呼ぶことにも抵抗がありますが)を見るにつけ、弁護士としては、その曖昧な言葉の使い方とその報じられ方に疑問や違和感を持つことがしばしばあります。
広末涼子さんの「不倫」の件が大きく取り上げ続けられることへの疑問もあったりしますので、ちょっと取り上げてみたいと思います。
そもそも、弁護士は、実務において「不倫」という言葉を普段使ったりはしません。
法律的には、離婚原因となったり慰謝料請求の根拠となるのは、「貞操義務」に違反すること、つまりは「不貞」(不貞行為、不貞関係)であり、それを「不倫」と表現することはないからです。
一方の「不倫」ですが、こちらは漠然とした意味合いで使われているところがあります。
本来、不倫とは、「倫理」に反するという意味から来ているはずなので、夫婦関係、男女関係に限らない用語ともいえるのでしょうが、現実には、「浮気」がいつの間にか「不倫」と言い換えられるようになったような印象があります。
「不倫は文化だ」といった芸能人がいましたが、そのあたりからよく使われるようになったのかもしれません。
しかし、芸能ニュースで使われる「不倫」と、法律実務における「不貞」には明らかにより大きな違いがあります。
というのは、夫婦関係が破綻した状況での男女関係は、法律実務においては「不貞にはあたらない」と評価されるのに対し、芸能ニュースを見ていると、そのようなことはお構いなしに、婚姻関係にある有名人が、別の異性と深い関係になったことが判明した時点で、「不倫」と表現してバッシングが開始されるからです。
ですが、メディアで取り上げられる「不倫」なるものが、実際には夫婦関係破綻後に生じたということで「不貞にあたらない」との評価を受けるならば民法上は違法ではないわけですが(当然ながら刑法上の犯罪でもありません)、実際の取り上げられ方は、そんな事情の違いなんてそっちのけになっており、今のワイドショー、ネット情報のかなりの部分は、法的に何ら違法でないか、その可能性があるものを、まるで悪事のように報じている印象で、正直、強烈な違和感を覚えます。
あとでも触れますが、いったん「不倫」と報じられた側のダメージの大きさは計り知れないからなおさらです。
もちろん、「婚姻関係中に他の異性と深い関係になることは倫理に反する」という価値観に基づくものだという反論もあるかもしれませんが、それは価値観の押し付けであり、それでもって公開の場所でつるし上げたり、個人情報をかき集めて垂れ流すことが正当化されることはあり得ないというのが私の意見です。
もちろん、法的に違法なものしかメディアが取り上げてはいけないとまでは言いませんが、仮に違法とまではいえないものを扱う場合の指標、メルクマールは、「多くの人に知ってもらうべき公益性があるか否か」そして、「相当高いレベルの内容の真実性」であるべきで、多くの場合、芸能人の「不倫」の報道にそもそも「公益性」なんてないでしょう。
ちょうど、広末さんの「不倫」は、ジャニーズの例の問題が取り沙汰されていたところに出て来たもので、それにより、ジャニーズの問題の扱いが相対的に小さくなっているように感じますが、両者は、問題の本質、公益性という点からして、およそ次元が異なりますし、その対比からしても、特に大手メディアの扱いの不均衡さは際立っていると感じます。
私が、芸能人のこの種の不倫問題を原則としてメディアが取り上げるべきでないと考えるもう一つの理由は、家庭内の問題について、玉石混交の情報で根掘り葉掘り穿り回すことで家族を含め、多くの人が傷ついてしまうことがあるからであり、その結果、取り返しのつかない事態となっても、「みんなでやっているせいもあって」誰も責任を取らないで済むという恐るべき現実があるからです。
まさに「横断歩道 みんなで渡ればなんとやら」状態ともいえます。
実際、寄ってたかってではない段階で起きたことですが、市川猿之助さんのご両親の死亡という非常に痛ましい最悪の結果については、あらためてメディアの影響の大きさ、恐ろしさを実感させるものです。
また、広末さんの報道を見ても、すでにいろんな話が出て来ています。
その中には、お子さんたちの情報も含まれていますし、夫婦関係が良好とは言えず、離婚の話が出たり、すでに別居に入っていたことは、広末さんの夫の側も認めています。
さらには、広末さんの夫の「不倫」や「暴力」に関する情報も流れています。
このあたりの真偽については不明なところもありますが、もし、すでに相当期間別居して「破綻」と評価される状況になっていれば、「不貞」とはならない可能性が高いうえ、仮に広末さんが夫の不貞や暴力に苦しんでいて、不倫相手とされる男性が、苦しんでいる彼女を支えてあげようとしていたというのであれば、そして子供たちもその男性を慕っていて一定の関係性が構築されていたような場合には全然見方が変わって来ることになります。
もちろん、私は、それが真実だと言っているわけではなく、そうした様々な可能性のある、しかも極めてナイーブかつドメスティックな問題に、勝手に色づけをして「みんなで渡れば~」の体でバッシングしているという現実こそが異常であり、間違っているのではないかと申し上げたいのです。
実際、弁護士として離婚事件に取り組んでいると、夫婦関係の破綻は、不貞や暴力だけでなく、モラハラであるとか、性の不一致、さらには配偶者の親との不和、子育ての方針の違いなど、本当にいろんな事情によって起きており、破綻に至る本当の経緯はおよそ外からはわからないことの方が多いのが実態です。
それでもって、偏った情報で決めつけられ、さらに憶測で非難されたことで本人や周囲が受けた被害を後になって回復することは不可能といっても過言ではありません。
それと、広末さんに限らず、「不倫」した芸能人をバッシングする記事やコメントを見ていると、「幼い子供がいるのに」といったものも少なくありませんが、「子供がいる」ということと「どちらに非があるか」ということは別のことです。
この点、実際の芸能ニュースやネットの記事、コメントなどを見ると、「一番の被害者は子供たちだ」という論調もありますが、そもそもメディアが大騒ぎすることで子供たちがより傷つくわけだから、そのような発言自体、偽善であり、詭弁であると感じます。
で、この問題に対する私の結論ですが、テレビもネットも週刊誌も、芸能人の不倫ネタを扱うこと自体、すぐにやめるべきだと思います。
夫婦関係がうまく行かなくなり、他の異性との男女関係に陥ったり、離婚したりということは、ごく普通に起きることですし、犯罪でも何でもないわけです。
それを、当事者でもなく、家庭内のことをよく知りもしない人間が、偏った情報や憶測でもって、メディアやネットで一方的に批判するなんて、本当に余計なお世話だし、そちらの方が犯罪的とすらいえなくもありません。
実際、もし、今度の広末さんの件が、夫婦関係破綻後であるとか、あるいは破綻の原因が夫の不貞や暴力などの何らかの違法行為によるものだったとしたら、広末さんのCMや映画出演などの仕事を失わせるきっかけとなった一連の報道は、違法な「業務妨害」と評価されてもおかしくないのではとすら思うのですが、もしそう評価された場合、生じた莫大な損害についてはいったい誰が責任を取るのでしょうか。
コンプラ社会と言われるようになって久しいですが、この芸能スキャンダルの領域においては、「コンプライアンス」が全然守られていないように感じます。
付言すると、テレビや文春や写真週刊誌等で取り上げることの弊害は別の意味でも極めて大きいように思います。
仮にネットで誰かが個人情報を暴露して誹謗した場合には名誉棄損が容易に成立するのに、先行してメディアが取り上げてしまっている場合、その後のネット記事は事実上不問になってしまうからです(実際、ネットのいわゆる「まとめ記事」の類はあちこちの既出の情報を引用するだけのものが多いでしょうから、なおさらです)。
メディア関係者は、いい加減目を覚まして、「視聴者が見たがるであろうもの」を追っかけまわすのではなく、メディアの責任、影響力の大きさを自覚し、本当に扱うべき公益性の高い事件を丁寧に掘り下げる姿勢に立ち戻るべきです。
そして、そのためには、視聴者側の意識改革の方がより大切で、このような興味本位で無責任な情報には背を向けて、それを扱うメディアやネットで情報を垂れ流す側に対して、それを非難するなど断固たる姿勢を持つことこそが必要なのだと強く思います。
日々雑感~平和公園と亀の慰霊碑のお話
事務所の近所に行きつけの喫茶店があるのですが、そこでアルバイトをしている若い女性のウエイトレスさんと会話をしていたら、韓国人男性とお付き合いを始めたという話になり、そこから話の流れで広島の平和祈念公園(以下、平和公園といいます)にある「亀の慰霊碑」のお話になりました。
私は広島出身の被爆二世ですが、生まれ育った場所がまさに平和公園のすぐそばだったこともあってこの亀の慰霊碑には特別な思い入れがあります。
というわけで今回はこの亀の慰霊碑のお話をさせていただきます。
私が地元の広島国泰寺高校に通っていた当時、平和公園は私の毎日の通学路でした。
平和公園を西から斜めに突っ切るようにして東側の平和大橋を渡るのが最もオーソドックスなルートだったのですが、朝の通学の際に最初に渡る橋が本川橋でした。
この本川橋は、私の家のすぐ近くで、ちょうど平和公園の真ん中を西から東に通り抜ける道の西側、本川(太田川)に架かっている橋なのですが、位置的には原爆投下の目標となったとされるT字の形をした相生橋のすぐ川下(南側)ということになります。
そして、亀の慰霊碑はこの本川橋の脇に1970年に設置されたのです。
慰霊碑には当時も千羽鶴が掛けられていたので、被爆者の慰霊のための碑であることはわかっていましたが、当時の私は、いつも見ていた亀の慰霊碑が、誰を慰霊しているのか、なぜそこにあるのかについて関心がなく、毎日の日常風景の一つとして、何気に見過ごしていました。
亀の慰霊碑が、広島で被爆した、韓国人の被爆者を慰霊するためのものであることを知ったのは確か高校を卒業して間もないころだったと思います。
韓国の人たちにとって、亀は神の使いを意味し、「死者は亀の背中に乗って昇天する」という故事もあることから、亀をモチーフにした慰霊碑になったとのことでした。
ですが、そのことを知っても、「ふーん」という程度の受け止めしかできていなかったのですが、問題は亀の慰霊碑が設置された場所だったのです。
正確にいうと、最初、亀の慰霊碑が設置されていた場所は、平和公園から本川橋を渡ってすぐ右側にある土手の緑地の中でした。
つまり、亀の慰霊碑の設置場所は平和公園の中ではなく、外側だったのです。
では、なぜ、平和公園の外側に慰霊碑が設置されたかといいますと、公には、被爆して亡くなった「李ウ」という朝鮮の王族の方の発見場所付近だからと説明されているようです。
しかし、実際の設置の経緯はそう単純な話ではありません。
当然のことですが、当時、慰霊碑の設置のために活動していた人たちは、平和公園の内側への設置を求めていたそうです。
しかし、当初は前向きだった広島市側が、途中で「公園内の慰霊碑設置を認めない」という姿勢に変わったため、やむなく本川橋の西詰に設置することになったというのが真相のようなのです。
実際、この問題を知った当時、そういった話をよく聞かされました。
その後も、被爆者団体、韓国人の団体などが粘り強く声を上げ続けた結果、1999年になって亀の慰霊碑はようやく平和公園内に移設されたのですが、考えてみればつい最近のことです。
よくよく考えると、この問題は二重三重の悲劇であり、広島という世界平和の象徴ともいえる都市に、依然として差別意識が根深く残っている現実を示すものといえます。
そもそも、1910年に韓国が日韓併合により植民地化されて以降、多くの韓国朝鮮人の方々が日本に強制的に連れて来られたという歴史的背景があるわけです。
広島、長崎で被爆した在日の韓国朝鮮人は、日本が起こした戦争に巻き込まれ、その挙句に祖国から遠く離れた場所で被爆して亡くなって行ったわけですから、その苦しみの大きさからすれば、日本人の被爆者と同等以上に慰霊されるべきは当然といえるでしょう。
にもかかわらず、当時、韓国人の方々が望んだ「平和公園内への設置」を拒み、その実現にさらに30年近くを要したということ自体、日本人として重く受け止めておくべき「負の歴史」といえます。
人の心に棲みついて歪んだ価値観を生み出す「差別意識」を、如何にして払拭していくかは、いつの時代であれ、真剣に考え続けなくてはならないことだと強く思います。
この話を喫茶店のウエイトレスさんとしながら、ふと思ったのは、今、韓国の人が平和公園に行っても、亀の慰霊碑は平和公園内に設置されているので、慰霊碑の設置を巡る経緯に気づく人は少ないか、ほとんどいないだろうということでした。
でも、日本人が海外の人たち、特にアジアの人たちと交わって行く時には、かつて日本人がアジアの人たちに対して非道な振る舞いをしてきたという負の歴史と、にもかかわらず、現代になっても、かなりの日本人の中に、差別意識が根深く残っており、そのような排外主義的な出来事があちこちで続いていることを知っておくことは、個人レベルでの相互理解という意味でもとても大切なことだと思います。
実際のところ、若い彼女とその彼氏である韓国人男性が交際を深めて行くためには、両国間の不幸な歴史やそれに派生する出来事を詳しく知る必要はないのかもしれませんが、たとえば、より深く付き合い、結婚ということになれば、お互いの友人や親族との交わりが出てくるわけで、その時に、この亀の慰霊碑の歴史について知っておいて、そのことについて語り合うことができれば、お互いの周囲の人たちとの信頼関係がより深まるのではと思ったりもしました。
過去の日本人が非道なことをしたことで若い人が卑屈になる必要はありませんが、かつて植民地支配をした側で生まれ育った人間はより謙虚であるべきでしょう。
今は関係ないにせよ、加害者側の人間が被害者側の国々の人たちに対して、開き直ったような態度を取ることは心情的な対立を煽るだけで、何も良いことはないに違いありません。
もし、この記事を読んだ方が広島に行かれる際には、ぜひ亀の慰霊碑を訪ね、日本人が周囲の国の人たちと仲良くしていくことの大切さに思いを巡らせていただければと願って止みません。
医療事件日記~依頼者と協力医のこと
私たちが医療事件を扱って行くうえで協力医の存在は不可欠ですが、最近当事務所で扱っている医療事件において協力医との関係でとても嬉しく思ったことが続けてありましたので、ちょっとご報告します。
通常、協力医にお願いすることは、事案の資料を一緒に検証してもらうなどして、事故がどのような機序で起きたかであるとか、当該医療行為における注意義務違反の有無、結果回避可能性等についてディスカッションの時間を取っていただき、助言をしてもらうといったことになります。
ただ、事件によっては、協力医の方にお願いして、依頼者を直接診察していただく場合もあるのですが、それは、たとえば、ご本人が訴えている症状の原因やそこに至る機序を正確に把握しておく必要があるからです。
また、過失や因果関係を検討する上でも、協力医の方に患者を診ていただくことは非常に有用な場合があります。
もちろん、交通事故などでもあることですが、病状がなかなか改善せず、依頼者の側から協力医の紹介を頼まれることもあります。
そのような経緯で、事案によっては、依頼者に協力医がおられる病院を紹介して診察を受けてもらうということが時折あるのですが、それが良い結果につながるということが立て続けにありました。
一件は、手術ミスで動脈を損傷し、さらに術後の対応の遅れも重なって筋肉や神経が広範囲にわたって壊死したという事故で、その後の回復が捗々しくなかったため、今後の医療方針を検討してもらいたいという要望もあって、信頼できる外科医をご紹介したところ、その結果が非常に満足のいくものだったことから、最高の医師に出会うことができたということで、治療にあたってくださった外科医だけでなく、私たち弁護士にもお礼を述べてくださったのです。
もう一件は、ある医療ミスのせいで首から肩、背中、さらには腕にも強い痛みや痺れが出て、日常生活もままならなくなったということで、そこに至った機序を検討する中で、ペインクリニックの協力医の方をご紹介したところ、初回の診療の際の処置で症状がかなり楽になったということで、以後も通院を継続しておられますが、もしかしたら後遺症が残らず、治癒が見込めるかもしれないというところまで来たのです。
現在のところ、その方の症状はまだ完治までは行っていませんが、日常生活における苦痛はかなり軽減してきており、こちらのケースでも、依頼者の方からは、紹介した医師に対してだけでなく、私たち弁護士までお礼を言われ、なんだか面映ゆい気持ちになりました。
依頼者にとって、弁護士への依頼の目的はあくまで事件の解決であることはいうまでもありませんが、協力医の方との出会いが依頼者にとって救いになることがあるということは、ある意味、弁護士冥利に尽きると感じるところでもあります。
医療事件日記~接骨院と保険
医療事件を多く扱っておりますと、関連領域での事故についても相談を受けたり、事件受任となったりすることがあります。
たとえば、老人ホームなどの福祉施設における介護事故や接骨院における施術事故といった事件です。
いずれも、真相の解明、責任の追及のためには医学的な評価が必要な領域なことがあり、医療過誤と共通する点が多くあります。
このうち、接骨院における施術事故について、事故の内容自体のことではありませんが、意外と重要というか、見過ごせないと感じたことがありますので取り上げてみます。
医療機関における医療事故の場合、医療側が損害保険に加入していないということは、これまで経験した中では一度もありません。
顧問弁護士がいない比較的小規模の医療機関であっても、交渉段階から弁護士が出て来ることが通常ですが、実質的には保険会社側の弁護士だったりします。
医師会や保険会社からの紹介ということが多いようですが、いずれにしても損害保険で対応してもらうことになりますので、実際の解決においては、保険金を支払う保険会社の了解を得ながら進めて行く感じになります。
一方、接骨院における施術事故の場合、接骨院自体は医療機関ではないため、医療過誤保険で対応するわけではありません。
もっとも、以前に扱った事件で経験しましたが、それに類する損害保険は存在しています。
ある接骨院の事故で、その接骨院は警備保障系の会社の損害保険に加入していたのですが、実際にやりとりをしてみると、医療過誤保険の場合と同レベルの賠償がなされましたし、対応も非常にスムーズでした。
ところが、最近立て続けに相談を受けた複数の接骨院での施術事故においては、いずれの事故でも接骨院は損害保険に加入していませんでした。
保険でカバーされないことが影響してか、いずれの事故でも、接骨院側が被害者に対して非常にシビアな対応をしてきており、そのため、被害者の方が困って相談に来られたわけです。
個々の事件の解決のことはともかく、損害保険加入の要否についていえば、接骨院における施術はカイロプラクティックのような体に物理的負荷をかける類の施術では重篤な後遺症が残ることもあり得ますし、整形外科医ではなく、医療機関でやるような検査がスムーズにできないといった制約もあって、対応の遅れで重大事故につながることもあり得るわけですから、損害保険に加入しておいてもらわないと、利用者の側からすると、安心して施術を受けられないという問題があります。
また、実際に接骨院を利用する側にしてみると、当該接骨院が損害保険に入っているか否かは一見して明らかではありませんので、事故に遭ってから、「実は保険に入っていません。お金はありません」となることだってあり得るわけで、今相談を受けている事案はそんな展開だったわけです。
自転車事故で数千万円の高額賠償となった例もあるように、自転車を乗る人ですら、いざという場合に備えて損害保険に加入するのが当たり前になりつつありますし、車の任意保険は、「任意」といいながら、万一事故が起きた場合のことを考えれば、「義務」だと言っても過言ではありません。
同じように、接骨院の施術でも時に重大な損害が生じるリスクがある以上、損害保険に加入すべきですが、利用者としても、接骨院を利用するにあたっては、かかろうとしている接骨院が損害保険に加入しているかどうかを事前に確認しておくことが大切なのではないか思った次第です。