
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart2
Part1に続き、原爆が広島や長崎に投下された経緯について書いてみたいと思います。
原爆投下に至る経過については、Part1でも触れましたが、投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのが1945年4月、爆発実験の実施、成功が同年7月、広島への原爆投下は8月6日と、戦争の末期ですでに戦後処理について、連合国側で駆け引きが繰り返される中での極めて短期間の政治決定でした。
ご存じの方もおられるかもしれませんが、その中で、同年6月にアメリカの高名な科学者たちが作成し、大統領諮問委員会に提出した「フランク・レポート」と呼ばれるものがあります。
この「フランク・レポート」の中で、彼らは「日本への原爆投下を思いとどまるべきだ」という提言をしています。
しかし、その提言は採用されることなく当時の大統領であるトルーマンは原爆投下を決定します。
この背景に何があったかですが、その一つとして指摘されているのはトルーマンは黄色人種に強い偏見を持っていたということです。実際、彼は「けだものと接するときはけだものとして扱うしかない」(ここでいうけだものとは日本人のことを意味しているそうです)と手紙に記しています(ほかにも、戦後、トルーマンは原爆投下に関するファイルに「ジャップ爆弾事件」という差別的なタイトルをつけていたそうです)。
また、もう一つ見逃せないのが、戦後にアメリカのエネルギー省によって作成されたレポートです。それによると、第二次世界大戦当時のアメリカ政府は、広島、長崎への原爆投下を「実験」として位置づけています(もっとも、「実験」という記載はその後用いられなくなります。さすがにまずいと考えたのかもしれませんが)。この実験という言葉の意味ですが、普通に読めば、広島、長崎への原爆投下は、人類史上初めて作られた核兵器の実際の威力、環境への影響を検証するための行為だったと解釈されます(トルーマン自身、原爆投下後に「実験は大成功だった」と述べていたという話もあります)。
実際、アメリカは終戦後すぐに広島長崎に入り、以後、現地において非常に詳細な調査を行っています。原爆症認定訴訟の中で私たちが裁判所の手続で入手した放射線影響研究所(放影研)のレポートは、戦後のアメリカによる調査の資料を引き継いで保管していたものですが、その調査記録は、個々の被爆者に関する被爆当時の状況から被爆後の健康状態に関する追跡調査も含め、驚くほど詳細なものとなっていました。原爆投下直後からこのような詳細な調査が行われていたことは、広島、長崎への原爆投下が、まさに「実験」だったことを示しています(さらに、戦後のアメリカによる被爆者に対する調査は、放射線の影響を「研究」するためのもので、被爆者の放射線被害に対する治療は原則として行っておらず、2017年になって、放影研はそのことを公的に謝罪しています)。
ただ、振り返って考えてみると、もしアメリカにとっての当時の敵国が日本ではなく、ドイツ、イタリアであったなら、この「実験」は行われなかったのではないでしょうか。
トルーマンが根深い人種的偏見を持っていたことが、「黄色人種相手なら、無差別殺戮となるような実験を行っても構わない」との発想となり、「フランク・レポート」のような原爆投下に反対する意見があったにもかかわらず、それに耳を貸さず、究極の大量殺戮兵器である原爆を広島と長崎に投下するという決断へとつながったともいえるのではないでしょうか。
ところで、原爆投下を止めるようにと提言した「フランク・レポート」の中には、他にも注視すべき重要な記述があります。
まず、同レポートでは「原爆の情報をアメリカが独占するのではなく、オープンにして国際管理を進めるべきだ」という提言がなされており、その理由として、科学者たちは、「科学技術の独占は極めて困難なので、結局のところ、いつか敵国にも共有されることになる。それならば先手を打ってソ連などが開発できていない現時点で、仲間に引き込んでしまって、世界でこの兵器を管理してしまうほうが現実的だ」と主張します。
さらに示唆的なのは、「デモンストレーションであれ実戦使用であれ、原爆をいったん使用したらその時から原爆開発・軍拡競争が始まる。世界の各国はあらゆる資源と技術をためしてより威力のある原爆をより効率的に安価に数多く作ることに取り組む。さもなければ、自国を守れないからだ」との記述です。
まさに、この「フランク・レポート」を作成した科学者が予期し、危惧したことが、今、この地球上で起きている現実となっているわけです。
振り返ってみれば、もしあの時のトルーマンが、この「フランク・レポート」をきちんと受け止め、自身の偏見に囚われず、核兵器のもたらす未来に関する洞察力や大局的な視点あるいは他者の指摘に耳を貸す謙虚さを持つ指導者であったならば、核兵器開発競争に明け暮れ、核抑止力と称して脅しを掛け合うような未来ではなく、もっと融和的な異なった世界が築けたのではという気がしてなりません。
指導者の選択も含め、人は時として誤った道を選びます。しかし、そこであきらめず、おかしいことに対しては声を上げ、変えていく努力をするしかないわけで、今からでも遅くないと信じ、「フランク・レポートで述べられているような仕組みを作るために人類の叡智を結集しなくてはならない」、被団協のノーベル平和賞受賞の報に接して、あらためて痛切にそう考えています。
いつの時代であれ、その時代を生きている私たちには、目の前の現実に囚われず、次の世代のために理想を求めることを忘れず生きていく責任があるからです。
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart1
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会。以下、「被団協」といいます)が今年のノーベル平和賞を受賞することになりました。
そのこと自体は、本当に称賛されるべきと思いますし、広島で生まれ育った被爆二世であり、原爆症認定訴訟にも関わった私にとっても感慨深いものがあります。
被団協の長年にわたる活動は、後遺症に苦しむ被爆者に対する救済にとどまらず、被爆の実相を広く訴え続けたことが世界の反核兵器活動に与えた影響は大きいといえますし、今や「被爆者」という言葉は、「ヒバクシャ」あるいは「Hibakusha」と表記されるようになり、「ノーモアヒバクシャ」という反戦の叫びは世界に広まってもいます。
原爆症認定訴訟において、国側は政府も被爆者救済に尽力してきたというような主張をしていましたが、実際は逆で、消極的な国の姿勢に対し、被団協をはじめとする様々な人たちの粘り強い運動によって被爆者援護法による救済の仕組みが実現され、被爆の実相が広く社会に知られるようになって行ったというのが本当のところです(このあたりの被爆者の人たちの苦闘の歴史については、広島の産婦人科医である河野美代子さんという方のブログ記事が詳しいので、興味のある方はぜひお読みいただければと思います)。
唯一の被爆国の政府が、未だに被爆の実相から目を背け、核兵器廃絶に後ろ向きの姿勢を持ち続けていることは本当に情けなく恥ずかしいことですが、そこに抗い、闘い続け、国際社会にも核兵器の恐ろしさを訴え続けてきた被団協の活動は、人類の歴史上において最も意味のある社会運動の一つだと思いますし、今回のノーベル平和賞はその活動の意義が評価されたもので受賞に相応しいと思います。
しかし、なぜ今このタイミングで被団協がノーベル平和賞を受賞したのかを考えると、その受賞を手放しで喜ぶことはできません。
なぜならば、ノーベル平和賞はその時々の世界情勢を反映する傾向があるといわれていますが、第二次世界大戦後、今ほど核戦争の危機が身近に迫ったことはなく、今回の受賞にはそれが影響しているのかもしれないからです。
実際、今の世界情勢を見ると、ウクライナを侵攻したロシアのプーチン大統領は平然と核兵器使用の可能性に言及していますし、中東情勢も混とんとしており、イスラエルのガザ侵攻はその後レバノンへの侵攻、無差別攻撃、イランとの間でも双方が爆撃を繰り返すなど、中東全体に広がってさらにエスカレートしており、根っこに宗教的価値観の対立があるだけに、いずれかが壊滅的な被害を受けるような状況に陥れば、対抗手段として核兵器が放たれる可能性は否定できないし、その危険性は日に日に高まっているのではないでしょうか。
さらには、アメリカでトランプ大統領が誕生することが決まりました。差別や偏見を声高に語り、分断、対立を煽るトランプのような人物が大統領になれば、それこそ何かの弾みで核兵器が使用されるのではないか、さらには彼が日ごろからロシアやイスラエル寄りの発言をしていることからして、ロシアやイスラエルの核兵器使用が容認されてしまうのではないかとの危惧も拭えません。
こうした核兵器の使用の危険性の高まりについて現実的にはピンとこないというか他人事のように感じる人もおられるかもしれませんが、歴史を振り返ってみれば、かつての広島、長崎への原爆投下も、当時の愚かな指導者の、自身の持っている偏見と当時の世界情勢への近視眼的な考え方が合わさって決定された面があり、非常に短絡的な政策決定であったといえます。
詳しくはPart2で述べますが、時系列でみても、原爆投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのは1945年4月、爆発実験の成功は同年7月、そして広島への原爆投下は8月6日であり、極めて短期間の政治決定だったことは明らかです。
私たちは、常に過去の歴史を教訓にしながら未来を考えて行かなくてはなりませんが、人類を破滅に導きかねず、また戦争を仕掛ける国が他国を威嚇する手段としてもてあそんでいるともいえる核兵器の問題を考えるうえで、広島、長崎への原爆投下がどのように決定されたか、その歴史にきちんと目を向けておくべきだとあらためて強く思います。
その意味では、昨年話題になった「オッペンハイマー」という映画は、原爆を投下した側のアメリカで作られたものとしてはタブーに踏み込んだ作品といえるかもしれませんが、オッペンハイマー自身の内心の苦悩を中心とした描写に偏っていて、なぜあの時原爆が広島や長崎に投下されたのかという最も描かれるべき歴史の深層に切り込んだ作品にはなってはいません(そこがハリウッド映画の限界といえるかもしれませんが)。
Part2では、そのことを取り上げてみます。
日々雑感~小林製薬の「紅麹」の問題
小林製薬が生産した「紅麹」による腎機能障害の問題は、死者、感染者数も日を追って増え、さらに計170社もの企業に他の企業にも小林製薬が生産した紅麹が提供されており、今後の影響がどうなるか予断を許さず、底なしの様相を見せています。
この事件のニュースに触れて、いくつか考えてみたこともありますので、ここで取り上げてみます。
そもそも、腎臓は体内で産生、吸収された代謝産物,化学物質,薬剤等を濃縮し,排泄する、小さいながら非常に重要な臓器ですが、それだけに薬剤等の影響で腎障害をきたしやすいというリスクを抱えています。
事件の関係で調べたこともありますが、薬剤等の影響で腎障害をきたしやすい理由については、腎臓への血流量が豊富なため(心拍出量の25%程度といわれてるそうです)、薬物も当然多く流入してしまうであるとか、メカニズム的に薬物が上皮細胞に取り込まれやすい仕組みがあり、構造的にも薬物の濃度が上昇して毒性域に到達しやすい等、薬物の影響で腎障害が誘発されやすいといった機序があるということです。
実際、小林製薬の事件では、急性尿細管間質性腎炎に罹患されているとの報道がありますが、薬剤性の腎機能障害の約半数は急性尿細管間質性腎炎という病態を示すそうです。
実は、当事務所で扱っている事件でこれから提訴予定の症例の中に、抗菌薬の選択を誤ったために急性の腎不全をきたして亡くなられたという医療事故があります。
同症例では、バンコマイシンとゲンタマイシンの組み合わせによって、腎障害の増悪を招く副作用が助長され、約20日の連続投与で末期的な急性腎不全をきたすに至ったのですが、事程左様に、薬剤性腎障害はまさに命に関わる重大な病態といえるわけです。
ところで、小林製薬の問題では、事実経過が徐々に明らかになっている途中で、まだはっきりしない点が多くありますが、問題の紅麹が生産された大阪の工場が昨年12月に閉鎖されたとのことです。
また、当該の紅麹ですが、ここにきて、その中から「プベルル酸」が検出されたという報道が出てきました。聞き慣れない名前ですが、どうやら青かびから産生されるもののようです。
もっとも、小林製薬はずっと未知の物質であるがごとき発表をしており、「プベルル酸」との特定は厚労省の発表で出てきたものですから、小林製薬の情報開示の姿勢にはやはり疑念があります(今年2月頃には株価が暴落したという報道もあり、インサイダーではないかとの声も上がっており、疑問は尽きません)。
ちょっと話を戻しますと、今回の報道を見ているうちに、当事務所で扱っている別の医療事件とちょっと状況が似ているところがあると思い至りました。
その事件というのは、白内障の手術後に感染性眼内炎を発症したという症例に関するものですが、実は、当事務所の依頼者以外にも、同じ日に白内障手術を受けた人に感染性眼内炎を発症した人が複数いたことから、手術との関連が疑われたのです。
あとになって、患者の感染の起因菌が、実はは真菌、つまりカビ菌だったことが明らかになるのですが、当該眼科の手術室の壁の巾木から真菌が検出されていたのです。
つまりは、手術室が不衛生であったため、カビ菌が繁殖して何らかの形で患者に感染したという機序が明らかとなったわけです。
小林製薬の事件の起因物質がカビに由来するものであることからすると、上記の事件と同じく、生産現場が不衛生なために紅麹の生産過程で青かびあるいはそこからできた「プベルル酸」が入り込み、増殖した可能性が考えられます。
青かびは湿気が高く、空気が澱むような場所であればどこでも発生するからです。
とすると、大阪工場の閉鎖が問題の発覚に近接した時期である去年12月だったことは、もしかすると証拠隠滅なのではないかと疑われても仕方のないところといえます。
生産現場が不衛生であったか否か、青かびが繁殖していたか否かは、現場を検証すれば明らかになる可能性があるのに、肝心の工場が閉鎖されてしまっては、その検証は容易でなくなるからです。
もちろん、まだまだわからないことだらけです。
「プベルル酸」はかなり毒性の強い物質のようですが、腎機能への影響についてはまだはっきりしない点があるとのことですし、青かびから「プベルル酸」が生成される機序の解明もまだだからです。
しかし、あらためて考えてみると、継続的に摂取されることの多いサプリの人体への影響は決して軽視できないものです。
今日日、猫も杓子も、健康のためにサプリを摂取するのが当たり前になっていますが、その安全性についてはわからないことが多いというだけでなく、実質的には野放しの状態といっても過言ではありません。
特に、今回の小林製薬の商品は、機能性表示食品と、もっともらしくカテゴライズされていますが、早い話、当該企業の自主申告(届出のみ)でそのように謳えるわけで、公的な機関による審査がなされないわけですからなおさらです(ちなみに、この機能性表示食品も安倍政権の時に認められたものです)。
私たち消費者が流通する情報を鵜呑みにせず賢くならなくてはならないことはそのとおりですが、健康や命に関わる食品やサプリ、飲料等の安全性のチェックが公的な形で担保される仕組みは必須なのだとあらためて痛感します。
日々雑感~能登半島地震と「流体」「活断層」のことPart2
Part1からの続きですが、能登半島のエリアは、今回の地震が来る前には、国が作成する地震マップ上では、危険な活断層がないことになっていました。
また、一昨年の群発地震の際も、地震調査委員会の平田という委員長は、「今後も、しばらくは同程度の規模の地震が起きる可能性がある」と通り一遍の見解を述べるだけで、今回も同じ人物が同じような発言を繰り返していました。
しかし、Part1でも指摘したとおり、その時点ですでに、金沢大、京大あたりの研究者は、「流体」の存在に着目し、さらなる巨大地震、さらには津波の危険にまで言及していたわけですから、地震調査委員会の認識が不十分であったことは明らかだし、委員会の存在意義が疑われてもおかしくない失態なのではないでしょうか(多くの方が亡くなっているのですから、せめて、委員会の認識が甘かったくらいのことを言って頭を下げるくらいのことはしてほしいと思いました)。
そこからさらに考えたことがあるのですが、それは、地震予知でしきりに使われる「活断層」という言葉の意味の曖昧さです。
これって、本当に自然科学的にみて、正しく使われている言葉なのでしょうか。
たとえば、ここのところで起きている巨大地震のうち、「活断層」のずれで起きたとされるものは、長野県北部地震と熊本地震のみだそうで(東日本大震災は発生の機序が異なります)、それ以外は、今回の能登半島地震も含め、活断層があると事前に指摘されていない場所で起きているのだそうです。
となると、断層を活断層とそうでないものに分けることに何の意味があるのかという疑問が湧いて来ます。
もちろん、活断層がある場所では地震への備えに心がけるという啓発的な意味はあるのでしょうが、これから断層がずれる可能性があるかなんて、今の科学のレベルでは厳密に判断できないというのが本当のところではないでしょうか。
実際、今回の能登半島地震が起きたメカニズムが「流体」の影響によるものだとした場合、「活」断層か否かは、何の意味もないのかもしれません。
平松教授らによると、地下の流体は、東京ドーム23杯分もあったそうで(それがわかることがすごいですが)、それが海底の断層に入り込んで断層を押し広げ、ずれを招いたというのですから、流体の行方次第ということになり、流体が入り込む余地のある断層さえあるなら、何処であれ、今回のような地震は起き得るということになるからです。
ところで、「活断層」か否かは、日本の将来を左右する重要な場面で、意味を与え続けられて来ました。
それは原発の再稼働を認めるかどうかという場面でのことです。
政府の原子力規制委員会は、原発の立地が活断層の上ということでなければ再稼働を認めるという方針を取っており、電力会社側は、「指摘された断層は活断層ではない」という検証の報告書を提出して、再稼働に持って行こうとしている現状があります。
しかし、実際の巨大地震が、活断層と位置付けられてない場所で起きるというのであれば、そんな基準や議論には何の意味もないことになります。
実際、能登半島にあり、かなりの被害を受けたとされる志賀原発の再稼働に関する審査で、象徴的ともいえる茶番のような事態が起きています。
敬意をたどると、2012年ころ、志賀原発の敷地内に活断層があるのではという指摘があり、その後、国も活断層との認識を示していました。
ところが、その後、北陸電力側が、調査報告書を提出して、去年の原子力規制委員会で、いったんは国が認めた「活断層」との認識をひっくり返し、「活断層ではない」として、再稼働の方向に舵を切るという、今から見れば、明らかな失態を犯しました。
地下の流体が断層を押し広げて、断層のずれを引き起こすというメカニズムを前提に考えると、定義の曖昧な「活」断層か否かで、再稼働を認めるなんてもはや茶番というほかありません。
原発規制委員会の審査のあり方の根本が問われているといっても過言ではないでしょう。
前にもそういう表現を使ったことがありますが、原発は、「動かない(動かせない)核兵器」です。
実際、かつて宮崎駿監督はこんなにも多くの原発がある日本が戦争なんかできるわけがないと言っておられますし、北朝鮮は、日本と戦争になれば、原発にミサイルを撃ち込むと挑発していたこともあります。
戦争のことはともかく、もし、万が一にも、福島原発で起きたような事態が再び起きれば、その周辺が根こそぎ廃墟となることは避けられず、本当に取り返しのつかないことになります(実際、福島の現実は取り返しのつかないものです)。
今回は、たまたま海底の断層がずれましたが、志賀原発の直下あるいは近辺の断層がずれて、海底が数メートルも隆起すれば、電源喪失どころか、建屋が破壊され、メルトダウンは必至だったはずです(再稼働に反対する人の粘り強い運動がなく、再稼働となっていたら、今回の地震の影響でより重大な被害が出ていた可能性だって否定できません)。
原発の再稼働で議論されているような電源喪失を防ぐ体制のあるなしの次元ではないのです。
また、能登半島のほんの少し南西側には、いわゆる「原発銀座」があります。
そこに、今回のような巨大地震が直撃すればどうなるでしょうか。
関西圏、北陸圏は壊滅の危機に瀕するでしょうから、想像するだけで空恐ろしいことです。
所詮、原子力規制委員会も、地震調査委員会も、原発を推進しようとする今の自民党政府の関係機関にすぎません。
巨大な震える舌の上に乗っかっている日本列島に生きている以上、いつどこで巨大地震に見舞われるかわからないわけで、「活断層」なんて紛らわしい言葉でもって、国民を欺くのはもうやめて、すべての原発の稼働を停止していく方向へと政策転換すべきです。
今回の能登半島地震のことで、もう一つ強く感じたことがあります。
それは、地震が起きた後の援助、サポート体制が如何に脆弱であるかということです。
地震が起きた直後の救援活動の初動の遅さの問題もありますが、それだけでなく、今回のようにインフラが壊滅状態になったときに、現地で苦しんでいる人たちのことが連日カメラが入って報道されているにもかかわらず、なぜそれが未だに解消されないままなのかという備えの脆弱さについてです。
能登半島からちょっと外れた場所では、何事もなかったように人々は暮らしています。
もちろん、どこにいても、多くの人が日々の生活、仕事に追われていますから、それは致し方のないことでもあります。
ただ、地震や洪水などの重大な被害は、決して他人事ではありません。
それゆえ、起きてからの対応ということではなく、たとえば、水や食料、さらには住む場所の確保の問題あたりについては、災害が起きるよりもっと前の段階で、より広域で対応を考えておくべきことではないでしょうか。
実際、日本の人口は、すでに減少しかけており、あちこちで過疎化が進んでいますから、いざとなったときに、緊急で避難する人を受け入れる体制をあらかじめ構築しておくことは十分に可能だし、特に、地震や洪水などの甚大な被害は毎年のように起きているわけですから、それこそ、いざというときに何の役に立たず、政治的な思惑に左右されるだけの「何とか委員会」なんかより、そういう仕組みを優先的に作って、その時に備えておくべきと思います。
まあ、裏金工作で、如何にして自分の懐を温めようかということしか考えない、今の保守政党の連中には、期待するだけ無駄のようにも思いますが。
根本的な問題は、私たちが、この国をどうしたいかというところにかかっています。
目先の経済的利益を優先し、弱肉強食で、搾取される人が苦しむのを放置するような社会を目指すのか、そうではなく、経済的にも所得の再分配で健全な競争社会、そしていざとなれば助け合えるような共助の仕組みを手厚くするような社会を目指すのかということなのだと思います。
後者を目指したいと思う人が増え、選挙に行き、声を上げるような社会であってほしいと心から願っています。
日々雑感~能登半島地震と「流体」「活断層」のことPart1
2024年は、元旦から能登半島地震、航空機事故と波乱の幕開けとなりました。
地震については、かなりの方が亡くなられており、珠洲市あたりでは家屋の大部分が倒壊するなど、大変な被害となっており、心が痛みます。
被災された方々には心からお見舞い申し上げます。
まだまだ寒い時期が続きますし、本当に大変だとは思いますが、なんとか乗り切っていただきたいと思います。
今回の地震が起きてからいろいろな情報に触れながら考えたこと、思ったことなんかをつらつらと書き綴ってみようと思います。
長くなりますが、興味のある方はお読みください。
はじめに、ちょっと唐突ですが、火山のない和歌山に温泉が多い理由をご存じですか?
実は、去年、私は和歌山に2回も行ったのですが、その際にそんな疑問に触れました。
和歌山に2回行くことになったきっかけは、那智勝浦の色川という集落に住んでいる中学時代からの親友のお母さんが亡くなられたことでした。
遠く和歌山で亡くなられたお母さんのことを彼と一緒に偲び、見送ってあげたいと思い立って、久しぶりに和歌山に足を運びました。
帰ってから、今度はその話を横浜の弁護士仲間としていたら、その中になんと祖父が色川に住んでいたという友人がいて、そこから再度の和歌山行きが実現しました。
和歌山で楽しかったことはいろいろあったのですが、それはまたの機会ということで、ここから温泉の話をします。
和歌山にはあちこちに自噴の温泉があります。
旅行の際に泊ったのが川湯温泉というところで、その名のとおり、河川敷に湧く温泉に水着で浸かるのですが、移動中には「つぼ湯」で有名な湯峰温泉にも立ち寄りました。
湯峰温泉の場合、そばを流れる細い川にも硫黄の強烈なにおいが漂っていました。
ほかにも和歌山といえば、南紀白浜温泉あたりが有名ですが、旅の途中で、和歌山県には実はひとつも火山がないという話になりました。
なのに、なぜ温泉がこんなにたくさんあるのか、不思議に思ってちょっと調べたのです。
調べていくうちに知ったことですが、和歌山は今でこそ火山がないものの、1400万年前には阿蘇山よりもはるかに巨大なカルデラの火山があったのだそうです。
そのため、紀伊半島は火成岩で形成されており、太平洋に大きく出っ張って黒潮に面していながら、潮流に削られないであの半島の形を保っていられるのは、固い火成岩のおかげであり、那智の滝のむき出しの岩肌も火成岩だとのことでした。
それはともかく、ここからが本題です。
和歌山に温泉が湧き出る理由というか、メカニズムですが、それはユーラシアプレートの下にフィリピンプレートが潜り込んでいく中で、海水が引き込まれるのだそうで、引き込まれた海水が地下で熱せられて、豊富な地下水がその影響で温められて温泉となって湧き出るのだそうです。
実際、南紀白浜温泉の湯温は100度にもなるそうですが、私たちの足元の地球の奥深くには、人智などはるかに及ばない苛烈な自然が潜んでいるんだとそんなことを考えたりしました。
調べ終わった時には、「ふーん、なるほど」という感じで受け止めていたのですが、年が明けて能登半島で震度7の地震が起きた際に目にした地震のメカニズムに関するニュースを見て、「あれっ?もしかして」と思うようになり、そこから少し情報収集に努めました。
なぜかというと、能登半島の地震も、おおもとに遡れば、フィリピンプレートの潜り込みによって起きているということだったので、もしかしたら和歌山の温泉の話と共通する点があるのではないかと思ったからです。
聞きかじりの知識ですが、どうやらビンゴのようです。
能登半島ではここ数年群発地震が続いていて、一昨年の5月にもかなりの規模の地震が起きているのですが、この群発地震のメカニズムを研究している京大や金沢大等の学者が、一昨年の地震の際、以下のようなことをおっしゃっていたのです。
そのうちの金沢大学の平松教授の発言ですが、「この群発地震は、フィリピンプレートの潜り込みとそれに伴う大量の『流体』の影響で起きており、この流体の影響が海底の断層に及べば、さらに大きな地震や津波が起きる危険もある」と明言されていました。
そして、この正月にまさにその指摘通りの事態が起きてしまったわけです。
最近読んだ、東京工大の中島教授という方の研究成果の記事でも、「流体には浮力があり、この流体が地下断層に及べば、液体の影響で断層が滑りやすくなって、地震を誘発する」と記載されていました。
私は、今回の地震のニュースで初めて「流体」という言葉を知りましたが、プレートが潜り込んで、海水が引き込まれていくということであれば、火山帯がない場所に温泉が出るのとまったく同じメカニズムということになります(実際、能登半島の地下の流体は非常な高温のようです)。
実は、和歌山の温泉の情報に接したときには、このプレートの潜り込みというのは、紀伊半島の下くらいまでだと勝手に思い込んでいたのですが、そんな規模ではなく、プレートは日本列島を超えて、日本海側にまで潜り込んでいたというわけです。
この潜り込んでいるプレート(今回は位置的にフィリピンプレートなのかもしれませんが、伊豆半島から東側は太平洋プレートが潜り込んでいますから、同じことです)を舌にたとえると、日本列島は常にこの凶暴な震える舌の上に乗っかっていることなわけで、つくづく日本は地震に見舞われるリスクが非常に高い地理的な条件の国なのだとあらためて痛感させられます。
となると、日本列島では、いつどこで巨大地震が起きるかは本当に紙一重といえますし、この島国で暮らす私たちの日常や経済的繁栄なんて自然の驚異の前では砂上の楼閣にすぎないのかもしれません。
この話はさらに続きますが、長くなるので続きはPart2で書きたいと思います。