日々雑感~憲法劇に竹本香織弁護士が出演します!
神奈川が誇る「がんばれッ!日本国憲法」(通称「憲法劇」)の公演が、来たる5月19日午後7時と、翌20日午後1時、同日午後5時からの計3回、神奈川県立青少年センターホールにおいて上演されます。
この憲法劇は、大勢の市民、県民の方々が参加しており、憲法にまつわるテーマでオムニバス形式の劇と歌で構成されるミュージカル仕立ての舞台で、今年で25回目となります。
今回の舞台では、どうやらあのM学園の問題なども扱われるそうで、どのような描かれ方がなされているか、楽しみなところでもあります。
そして、その憲法劇に、当事務所の竹本香織弁護士も出演することになりました。
もっとも、本人曰く、「出番はわずかで、ほとんど『ウォーリーを探せ』状態」とのことですが、最初は、みんな端役だったりしますので、いつかは主役に抜擢される日が来るのかもしれません。
現在、戦前の治安維持法も真っ青なほどのとんでもない悪法である「共謀罪」をごり押しで成立させようとしている今の安倍自民党のもとで、さらに改憲の策動が進められつつある中、日本国憲法を守り、その理想を世界に広めることこそ、私たち日本人の使命だと思いますし、そんな時代だからこそ、憲法劇のような取り組みを続けることの意義はますます高まっていると思います。
というわけで、興味とお時間のある方、ぜひ、神奈川県立青少年センターホールに足をお運びください。
そして、竹本香織弁護士の勇姿を探して(?)ください。
日々雑感~「鎌倉代書屋物語」と、ある「遺言」のお話
最近、「鎌倉代書屋物語」というドラマにはまっています。
主演は、多部未華子さんで、脇を倍賞美津子さん、奥田瑛二さん、江波杏子さんといったベテラン俳優が固めています。
ドラマ自体も、非情に丁寧に作られていて、心の琴線に触れる良質な作品ですが、観ていてあれこれ思うこともありましたので、ちょっと取り上げてみたいと思います。
物語は、鎌倉で代書屋をやっていた祖母が亡くなり、祖母に反発していた孫娘が、最初は継がないつもりだった代書屋を引き継ぎ、その仕事を続けていくうちに、人間的に成長していくという、ざっくりといえば、まあそんなお話なの(だろうと思うの)ですが、観ていて思ったのは、この代書屋という仕事が、私たちの弁護士という仕事にちょっと似たところがあるのではないかということでした。
たとえば、第2話で、離婚する夫婦が、お世話になった人たちに送る最後の挨拶の手紙を主人公が代筆するという回なんか、まさに、離婚事件に取り組む時に、心にとめておかなければならない貴重なメッセージが含まれているように感じました。
ちょっと話が逸れますが、離婚事件に取り組むとき、「人生の再出発」に力添えをするのだという気持ちを忘れないようにと心がけています。
それは、ある著名な弁護士からうかがったことで、その言葉がとても腑に落ちたため、以後、離婚事件に向き合う際の「座右の銘」にしているつもりです。
ただ、「鎌倉代書屋物語」の第2話では、さらにその先にあるべき離婚事件の終わり方の理想形が描かれているように思えましたし、現実的には必ずしも容易ではないにせよ、事件に関わる上で、これもまた「座右の銘」とすべきではないかと感じ入った次第です。
このへん、詳しくはネタバレになるので書きませんが、とてもいいお話でした。
考えてみると、弁護士の仕事というのは、部分的には代書屋そのものだったりします。
先日も、ある事件で、依頼者に代わって、親族に送る手紙を「代書」してあげたのですが、実際の事件では、そんな局面がしばしば訪れます。
中でも、現在扱っているある遺言作成の事件は、まさに「代書屋」そのものといえるかもしれません。
遺言は、人生のゴールの前に、遺される人たちに想いを籠めたメッセージを残すという作業ですが、財産をどう分けたいかということだけでなく、自分の死後、子供たちが仲違いせずに仲良く幸せに生きてほしいと願って、そうした想いをしたためた文章を作るという目的もあったりします。
今回の遺言の中にも、財産の分け方以外に、なぜそのような遺言を残そうかと思ったか、依頼者の想いを綴る部分があり、先日も打ち合わせをしながら、そうした依頼者の気持ちを書き留めて帰りました。
人には様々な感情があり、またそこに至るまでの長い歴史があるのですが、そんな中から、できるだけネガティブな要素を排し、あとで読む人に遺言者の心情をポジティブに受け止めてもらえるような表現をと考えている真っ最中だったのです。
遺言に綴る文章が、残された人の心に強く響くものであれば、不毛な争いが避けられることもあるわけで、弁護士(代書屋)の腕の見せ所でもあるわけです。
ともあれ、この「鎌倉代書屋物語」というドラマについては、最後まで観続けようと思っています。
大好きな鎌倉が舞台となっていますし、主演の多部未華子さんの演技も見所です。
そういえば、多部未華子さんと倍賞美津子さんは、去年封切の「怪しい彼女」で同じ人物の役を演じており、こちらの映画も最高に面白かったのですが、中でも、表情豊かな多部未華子さんのコメディエンヌぶりは最高で、いっぺんにファンになりました。
もう一つ、そういえば、今年、やはり大好きな作品(漫画)の「鎌倉物語」が、これまた大好きな堺雅人さんの主演で映画化されるそうで、こちらも楽しみなのですが、今年は、大好きな鎌倉がブームになるのではないかなんてことをふと思ったりしています。
皆さん、鎌倉にお出かけあれ!
日々雑感~交通事故事件の受任が増えている中で起きたある出来事
最近、交通事故事件の受任が増えています。
数えてみたところ、訴訟になっている2件を含め、現在進行形のものは7件ほどあります。
元々、交通事故は、医療に関する知見が役に立つこともあって、コンスタントに扱ってはいるのですが、今年になってばたばたと増えてきました。
もちろん、加害者側には通常保険会社がついておりますので、私の場合、基本は被害者側の代理人ということになります(任意保険に入っていない場合に加害者側を引き受けることもあります)。
というわけで、交通事故事件のお話をするのかとお思いかもしれませんが、本日のところはそうではありません。
実は、私自身が交通事故に遭ってしまいました。
といっても、怪我をしたわけではないのですが、あらためて事故の恐ろしさというか、紙一重なのだということを実感しましたので、事故のことを振り返ってお話したいと思います。
実は、ある日の午前中、私は片側2車線の主要幹線道路の左側走行車線を走っていました。
見通しの良い直線道路でしたので、かなり先の信号が青であることを確認しながら、直進していたのです。
右側の追い越し車線は、その先で右折する車が多いこともあって、渋滞気味となっていました。
一方、私の前方ではバイクが走っていましたが、かなりスピードを出していて、どんどん遠ざかって行きます。
そして、私の車が、前方の青信号の交差点に差し掛かろうとしたその時のことでした。
いきなり右側から年配の男性がひょいと現れたのです。
右側の追い越し車線が詰まっているので、横断歩道の手前で車が停止していたのですが、その車の前方を、歩行者信号が赤であるにもかかわらず、横切って来たわけです。
私はびっくりしてブレーキを踏みました。
幸いなことに元々あまりスピードを出していなかったので、その男性の1メートルちょっと手前で私の車は止まりました。
ところが、その直後、ドンという衝撃が後ろから襲います。
私の後方を走っていたバイクが止まれずに、転倒しながら私の車にぶつかって来たのです。
サイドミラー越しに、転倒しているバイクが目に入りました。
一方、前方に目をやると赤信号無視の男性がそのまま横断歩道を渡り切ろうとしています。
私は思わず「危ないじゃないか。何やってるんだ」と怒鳴りました。
すると、その男性は、「俺は障害者だ」と言い返してきました。
さすがにカチンと来て、「そんなことは関係ない。赤信号を渡っちゃだめだろ」と言ったら相手の男性は黙りました。
そこから車を脇に寄せ、バイクの男性に保険会社に連絡を取ってもらい、こちらは警察に連絡です。
すると、信号無視の男性は現場を立ち去ろうとしています。
急いで呼び止め、住所と名前を確認しつつ、赤信号を渡ったことを認めさせ、スマホで録音を取りました。
しばらくすると、警察官が来て、双方から事情を聴きます。
驚いたのは、赤信号無視の男性については、参考人扱いで、非があるのは車間距離を十分に取っていなかったバイクの運転手だとあっさり断定したことです。
こちらも弁護士ですから、事件として扱うことになれば、そうした法的な評価をするかもしれないとは思うのですが、一般常識的には、どう考えても主要幹線道路で赤信号を無視した歩行者が悪いに決まっているわけです。
こう言ってはなんですが、結構スピードを出している車も多い場所ですから、もしそうした車だったら人身事故になっていたでしょうし、死亡事故になっていたかもしれません。
そう考えると、非常に腹立たしいし、自殺行為に等しいくらい危険な行為なわけです。
それでも、人身事故になっていれば、業務上過失致死傷で法的責任を問われるのは運転している側ということになります。
結果は物損のみで事なきを得ましたが、つくづく、車の運転には気を付けないといけない、いえ、どんなに気を付けてもとばっちりのように事故の加害者にされてしまうことだってある、そうした恐ろしさを実感しました。
最後に、事故に遭わないための私の心がけですが、まずは車間距離、次に、先頭を走っている時のスピード制御、道路外から道路に出る時や狭い道、四つ角ではとりわけ慎重な運転を心がけること、そして、「もしかすると人が飛び出してくるかも」「車が強引に曲がって来るかも」という危険予測を常に心がけることといったあたりです。
今回は、危険予測が及びませんでしたが、先頭を走っている時のスピード制御が効を奏して人身事故に至らないで済みました。
運転される方々はくれぐれもお気を付けください。
日々雑感~「この世界の片隅に」を観ましたPART2
前回の記事では、広島出身者であること等、個人的なこととの繋がりといったあたりで、この映画の感想を述べましたが、今回は、純粋にこの映画の素晴らしさについて述べてみたいと思います。
まず、この映画が素晴らしいのは、ストレートに戦争を描いている映画ではなく、一人のごく普通の女性を中心とした市井の人々の日常を丁寧に描いていて、それ自体が十分に楽しめる作品であるということと、水彩画のようなタッチでそうした日常を描いている、どこかほんわかした作品でありながら、観ている内にその世界に引き込まれ、戦争の不条理さ、知らず知らずの内に戦争が日常生活に入り込んで来ることの恐ろしさが観る側にリアルに伝わって来るということです。
しかも、そうした戦争の不条理さ、悲惨さを描いている映画なのに、通常、その種の映画で感じられる押しつけがましさがまったく感じられないのは、もはや奇跡といえるかもしれません(そのあたりは、主人公の声を演じる能年玲奈改めのんの「演技力」に拠るところも大きいのかもしれませんが)。
ところで、この映画を観終わった時にまず思ったことは、この映画は、今の時代に生きる日本中、いえ世界中の人すべてが観るべき映画ではないかということでした。
まず、舞台は今から70年も前の戦争中の日本ですが、今も世界のあちこちで同じことが起きており、決して過去の出来事をなぞっただけの作品ではありません。
私自身、今朝のニュース番組で、「この世界の片隅に」とよく似た、空から大量の爆弾が投下される映像を観ました。
その下には、「この世界の片隅に」と同じく、ごく普通の生活を営む人々のつつましい暮らしがあるはずなのに、爆弾投下の映像を観ても、まるでゲームか映画の映像のように何も感じなくなっている、そんな自分に愕然とさせられます。
「この世界の片隅に」は、私たちにとって内なる想像力なるものがいかに大切かを気づかせてくれます。
しかし、私自身としては、そこからさらに思うことがありました。
実は、この作品で作者が最も伝えたいメッセージとは、私たち国民が今起きていることについて無関心でいることの恐ろしさ、愚かさなのではないかということです。
この映画では、ごく普通の平穏な日常の中に知らず知らずの内に戦争が入り込んで来て、生活が破壊される様が丁寧に描かれていますが、それが誰の目にも見えるようになるときは、否応なく戦争に巻き込まれ、大切なものが奪われ、もはや取り返しがつかなくなっています。
この映画の主人公は、終戦の玉音放送を聞き終わった後に、慟哭します。
「まだ戦えるのになぜ?」といったようなセリフでした。
このシーンで私が思ったのは、政府の言うことを鵜呑みにして、無知、無関心でいると、いつか、そうした状況に追い込まれてしまう、後になって悔やんでももう遅いのだということでした。
映画では最後に救いがあり、ホッと前向きな気持ちにさせてくれますが、周辺諸国との緊張を高め、集団的自衛権の行使を違憲ではないと強弁して軍事同盟関係を強化し、情報統制を強めようとする今の日本政府のスタンスを見るにつけ、現実の未来はそんな楽観的な結末ではないのではないかと思わざるを得ません。
また、トランプ政権の誕生に象徴されるように今の世界はどんどん内向きになっています。
しかしながら、偏狭なナショナリズムが台頭するということは、国際社会において自国の利益の追及が優先される傾向が強まるという事態を招くことは必定であり、大国が自国のエゴをぶつけ合うということが続けば、戦争の危機は容赦なく高まります。
ぶっちゃけていえば、トランプやプーチンのような人間が核ミサイルのボタンを押す権力を持ってしまっているわけです。
叡智をもって避けられるはずの戦争(殺し合い)はあるはずなのに、今の世界、日本は逆方向に突き進もうとしている、そんな気がしてなりません。
だから、立ち止って考えることの大切さを訴えてくれている、「この世界の片隅に」とはそんな映画なのではないかというのが、私の感想なのです。
もちろん、こうした捉え方は、私個人のもので、もしかすると作者の意図するところではないのかもしれません。
しかし、少なくとも、この映画は、観終わった後、私たちに、そこから何を考えるかを委ね、突きつけている、そんな作品なのだと思うのです。
またまた長くなったので、このお話はPART3に続きます。
日々雑感~「シン・ゴジラ」を観て思ったこと
最近になって、時間を縫って「シン・ゴジラ」を観て来ました。
もう上映時間が限られるようになって来ていますが、半年かそこらでDVDが出てしまうという最近の傾向の中では、かなりのロングラン上映となっており、この映画の人気ぶりがうかがえます。
実はこの映画を観に行ったのにはちょっとした理由があります。
ある友人がこの映画の製作に関わっており、エンディングのクレジットにその友人の名前が出て来るというので、それを観に行くという目的もあったわけです。
それはともかく、「シン・ゴジラ」、賛否両論あるようですが、映画としては非常に面白かったですね。
点をつけるなら、そうですね、80点くらいは行けそうです。
まず、この種の怪獣映画というのは、怪獣が「現れて」「暴れて」「戦って」「やっつける」という展開はほぼ一緒なので、そういう縛りがある中、どのように驚きを与えるのかという難しさがあると思うのですが、「シン・ゴジラ」は、この点、いくつかの場面で、そうした驚きを味わうことができる作品となっていました。
あと、これはあちこちでそう批評されているようですが、回りくどい日本の政策決定のシステムや、個ではなく集団でことにあたって行くという日本人の気質のようなところをテンポよく、また皮肉っぽくリアルに描いているあたりも、単なる怪獣映画に留まらない面白さになっていると思います。
ただ、あとで思い返し、この作品には大きな欠点があると思い至りましたので、多少ネタバレになってしまうところもありますが、そのことをちょっと書いてみます。
その欠点がいったい何かといえば、やはりそれは何といっても映画の結末ですね。
おそらく、この映画の結末は、福島の原発が冷却を続けながら地下水を汚染し続けている日本の現状を重ね合わせたものなのではないかと思うのですが、もし、そうしたメッセージをこの映画に籠めるというのであれば、ゴジラは核兵器によって生まれた怪物なのですから、福島原発事故をより明確に想起させるような結末であるべきだったと思います。
すでにあの原発事故から5年以上が経過し、記憶が風化しつつあるかもしれませんが、福島原発事故は、一歩間違えば、東日本全体に人が住めなくなる事態を招いてもおかしくなかったのですから、そうした恐るべき事故であったことを想起させ、その記憶を後世に残すような結末にすることは十分に可能だったのではないでしょうか。
もちろん、元々、そのようなメッセージはなかったと言われればそれまでですが、今の日本人が作るべき「ゴジラ映画」とは何なのかといえば、やはりそこに行きつくべきだったのではないかと思うのです。
しかし、その一方で、この映画ではそのような破滅的な結末は描けるはずはなかったであろうという気もしています。
なぜならば、この映画では、リアリティーを追求し、表現するために、自衛隊をはじめ、マスコミ、政治家に至るまで、非常に幅広く協力を求めているからです。
映画の中では、まあゴジラにかなうはずもないのですが、自衛隊は非常に頑張っています。
また、人がいるような状況では攻撃を中止するなど、人命優先で活動しているという、非常にバランスの取れた判断のできる組織として描かれてもいます。
エンディングのクレジットでは防衛大臣も経験している現東京都知事の名前も出てきますが、それもやはりリアリティーの追求のために何らかの助言を求めたということなのでしょう(製作されたのは東京都知事就任前ですからね)。
結局のところ、原発を推進し、核を容認する姿勢が垣間見える政府に近いところから物心両面の協力を得てきたわけですから、日本(政府)がゴジラに負けて東京が壊滅するというようなバッドエンディングに持って行くなんてことはさすがにできない、そうした大人の事情があったのかもしれません。
まあ、実際の映画においても、ゴジラは退治されたのか、そうではないのかについてはよくわからないところもありますが、やはり、原発も含めた核の象徴であり、人類を危機に陥れるやも知れぬ存在であるゴジラ(荒ぶる神のような存在ともいえます)なのですから、人間如きの浅知恵でその攻撃を防げるなんてことじゃなく、未だに核兵器や原発に固執し続ける愚かな人類に鉄槌を下す、そういう結末でなければならなかったのではないかと、観終わった今はそう考えています。
そんなことを考えていたら、ふと、「ネクストゴジラ」のストーリーが思い浮かんでしまいました。
もし、「ネクストゴジラ」の製作を検討中で、未だあらすじが決まってないということであれば、関係者の方、ぜひ当事務所宛ご連絡ください(笑)。
ここまで書いたのですから、当然のことながら、バッドエンディングとなりますが・・・。