
日々雑感~「東京オリンピック」を中止すべき理由について
ゴールデンウイークに入ったので、久々に連投します。
ちょっと前に、宮本亜門さんが東京オリンピックの中止を訴えておられましたが、全く同感です。
一方、政府や組織委員会は、国内外でコロナウイルス感染が収まる気配が見えない中で、スポンサー絡みの聖火リレーをこそこそ続けたり、さらにはオリンピックのために医療者を500人確保すると宣言するなど、相変わらず、国民の命や健康よりもオリンピックの開催を優先させる姿勢を変えていません。
政策の優先順位として論外であり、怒りを禁じ得ませんが、オリンピック開催の可能性という観点からしてもずれているとしか言いようがありません。
もはや、オリンピックが、多くの諸外国や多くの国民が納得する形で開催されることはおよそ期待できないからです。
以下、私が東京オリンピックを中止すべきと考える理由について述べます。
今回の東京オリンピックは、招致の段階から、安倍首相が原発事故の影響についてアンダーコントロールと実態とかけ離れたプレゼンテーションを行ったり、震災の地と離れた場所での開催なのに「復興五輪」を謳ったり、さらには、海外の捜査で、IOCの委員への買収疑惑が取りざたされたりする等、のっけからケチの付き通しでした(そんなことに比べれば、一時大きく取り上げられたエンブレムに関する疑惑など、かわいいものだったと感じる人も多いのではないでしょうか)。
さらには、コンパクト五輪を謳いながら、いざ招致が決まると、みるみる予算が膨れ上がり、当初7000億円強程度だったはずの予算額は、いつの間にか数兆円は下らないとも言われるようになっており、オリンピック利権という甘い蜜に有象無象が群がっているようにしか見えない状況になっています。
これは日本だけの問題ではなく、オリンピック自体が、ロサンゼルスオリンピックの頃から、商業五輪へと変質し、腐った商業主義が究極にまでエスカレートしてしまっていることの現れともいえるでしょう。
オリンピックが夏の暑い盛りに実施されるようになった理由も、高額の放映権料を支払うアメリカのテレビ局の都合が優先されたためだそうですが、言うに事欠いて、招致の際に、日本政府は、この時期の穏やかな気候が開催に適しているという発言をしてもいました。
しかし、マラソンなどの体力の限界に挑む過酷な競技が酷暑の盛りに行われることが如何に危険であるかは子供でもわかる話で、そのこと一つを取っても、「アスリートファースト」は口先だけで、オリンピックビジネスを成功させるためだったらなんでもありという印象を抱かせます。
要するに、もはやオリンピックは、それに乗っかって一儲けしたい人たちのためのイベントに成り下がっており、このような商業主義が跋扈している限り二度と誘致すべきではないし、オリンピック出場を夢見て頑張って来られたアスリートの人たちには申し訳ないのですが、「アスリートを利用し、食い物にする銭儲けのための運動会」という根っこが変わらない限り、世界の何処であれ、開催されること自体に否定的な感情が湧いてくるほどです。
そんなわけで、オリンピック自体に否定的な考えを持っている私ですが、そうした考えをいったん封印した上で、今のコロナ禍におけるオリンピック開催の是非という点のみに絞って意見を述べたいと思います。
ですが、コロナ感染の広がりとの関係のみからしても東京オリンピックの開催は無理だというのが、かなり前からの私の結論です。
もちろん、コロナ感染については、感染抑制のためにどのような政策が採られるかによっては、あと3か月弱の間に劇的に収束する可能性がまったくないとまではいえませんので(まあ、その可能性もほとんどないでしょうが)、日本国内のことだけにフォーカスするなら、もう少し様子を見てからという考え方もあり得なくはないのかもしれません。
また、無観客開催とか、入国者数を制限するとか、入国の際の検査を徹底するとかいったことで、感染拡大を防ぐ取り組みが一定程度奏効する可能性もないとはいえないでしょう。
しかし、国内におけるコロナウイルス感染リスクをある程度抑制できたとしても、別の視点から見れば、やはり東京オリンピックの開催はおよそ不可能であり、このままで行けば、中止に追い込まれることは必至と思います。
なぜならば、仮に国内の感染がある程度抑制されたとしても、世界中のコロナ感染状況があと2か月くらいの間に劇的に改善することはまずもってあり得ないからです(実際、ここに来て、変異株が一気に広まっていますし、インドではたった3日で100万人以上、一日あたり40万人以上が感染するという凄まじい状況になっています)。
自国内のコロナ感染がある程度収まらない以上、そう遠くない時期にかなりの国がオリンピックへの参加をボイコットするという決断をすることになり、そうなれば、世界のアスリートが平等に参加できるイベントとはいえなくなるに違いありません。
欧米ではワクチン接種が進んでいる国もありますが、十分に行き渡っているわけでもありませんし、あちこちで変異種も発生していて、ワクチンがそのすべてに効くのかも不明です。
要するに、世界を見渡せば、コロナパンデミックが収まる気配はなく、冷静に見れば、日々多くの感染者が出ている国の人たちにとっては、とてもオリンピックイベントなんかにうつつを抜かしているどころではないでしょう。
もちろん、未だ予選すら開催できていないという競技もあります。
オリンピックは、世界の最高峰のアスリートが一斉に集い、培った力を競う4年に一度の貴重な機会ではありますが、コロナ禍で混乱する世界の現実を見れば、スポーツ大会の開催が優先されるべき状況でないことは明白です。
かつて、政治や戦争などでオリンピックが開催できなかったこともあり、また一部の国のボイコットによりアスリートが無念の涙を流したこともあるわけで、「スポーツと平和の祭典」であるはずのオリンピックが政治や戦争などに左右されることなく開催され、全世界のアスリートが集えることには、何物にも代えがたい価値があります(そこが変質してしまっているということに抗うべきであると思うのですが、その点は措きます)。
ただ、逆にそうであるがゆえに、もはや全世界のアスリートが集えることができないことがほぼ確実となっている東京オリンピックを、世界中でコロナにより多くの命が日々失われている現実から目を背けてまでして、開催に向けて血道を上げることが、如何に誤った選択であるかは火を見るより明らかではないでしょうか。
もし、このまま開催につき進めば、他国の人たちからも軽蔑され、また大部分の日本国民からも批判を浴びるという、「呪われたオリンピック」になることは想像に難くありません(逆に、ここで開催を断念すれば、その決断については多くの国から理解は得られるでしょうし、またこれまでの準備が無になったことへの同情も集まるはずであり、その方が国益に叶うとも考えられます)。
もちろん、そこから先のことは、各競技の国際団体が中心になって考えることかもしれませんが、もし、来年あるいは再来年になってコロナの状況が落ち着けばオリンピックに代わる個別競技の世界大会を実施するという目標を立てるということはありかもしれません。
オリンピックに向けてトレーニングを積み、研鑽を重ねて来たアスリートの人たちに報いてあげるという意味があると思うからです。
とにもかくにも、諸外国が次々と参加ボイコットを表明した挙句に中止に追い込まれる前に自ら中止を表明し、徹底したコロナ対策に注力して国民の生活を守ることこそが、政府の取るべき道だというのが私の意見です。
日々雑感~国民を「緩慢な死」に追いやる政府や一部自治体のトップらの無策に憤る
いったい、今の自公政権はコロナ禍で苦しむ国民のことをどう思っているのか、本当に疑問だし、憤懣やるかたない気持ちになります。
東京や大阪などに3度目の緊急事態宣言が出ました。
ゴールデンウイークを直撃するものですし、日本の二大都市圏を狙い撃ちにするわけですから、国民の生活に重大な影響が生じることは避けられません。
という以上に、地道に生活している人たちにとって、生活の基盤を奪われ、生死にすら直結しかねないわけで、その状況を思うと胸が苦しくなります。
すでに、私たちの職場である横浜関内近辺でも飲食店を中心に閉店を余儀なくされた方々が大勢おられます。
対策の遅れ、混乱は、もはや一刻も許されないはずなのに、いったい、この国の政府は何を考えているのでしょうか。
実際、今回の緊急事態宣言はもう結果が見えていると思います。
宣言からしばらく経った時点では多少減少するかもしれませんが、緊急事態打ち切りでそこからほどなくすれば再び感染者数は増大するでしょう。
要はそんなことの繰り返しなのです。
そんな中途半端な効果しか見込めないのに、かき入れ時のゴールデンウイークにかけて宣言を出されれば、観光やレジャー、飲食、ショッピングなどを中心に、幅広い業種にダメージを与え、さらにはそれぞれの業種で働き、生計を得ている多くの国民の収入源を奪う結果となるのです(あくまで自粛「要請」ですので、それに見合う補償もありません・・・ここが本当にずるいのです)。
大多数の国民は、これまでずっと国の政策に疑問を感じながらもその要請に従って歯を食いしばって政府の要請に従って協力して来たにもかかわらず、政府は相変わらず小手先の対応に終始し、コロナ終息のための有効な手立てを見いだせないでいます(なのに、オリンピックだけは、すっとぼけて開催すると断言し続けています)。
今回の緊急事態宣言に至っては、1月に緊急事態宣言、3月にどこが違うかよくわからない「まん延防止措置」に切り替えて、舌の根も乾かないうちに、大々的に宣伝した「まんぼう」の結果の検証すらないまま、よりにもよって、ゴールデンウイークにぶつける形で慌しく発令されたわけで、今の自公政権の混乱ぶりは目に余ります。
というわけで、執るべきコロナ対策のことなどについてもう一度書いてみます。
約1年前の記事でも「政府がこのまま中途半端な政策を続けると、だらだらと感染が長引き、かえって日本経済や国民生活が重大なダメージを受けることになる」と書きましたが、まさにそのとおりの事態になっていると実感します。
日本は極東の島国であり、地続きのヨーロッパ諸国や広大な国土を持つアメリカ、ブラジル、インド等と異なり、コロナ感染の拡大が抑えやすいという地政学的な有利さがあるわけで、比較的感染者数が少ないのは、そうしたことの恩恵という面があります(それと日本人の真面目さ、勤勉さも影響しているのかもしれません)。
にもかかわらず、未だに感染がなかなか収まらず感染が再々拡大の様相を示している状況は、一言でいえば政府の無策によるものというほかなく、ここに来ての感染拡大は天災ではなく、もはや人災と断言してもよいでしょう(東京都知事、大阪府知事などがやっていることも五十歩百歩ですが)。
これも前に書いたことですが、コロナ感染を終息に向かわせるためには、検査の徹底か1か月程度の徹底したロックダウンに踏み切るしかないと思います(ほかにも消費税ゼロ、公平な収入補償など併用すべき政策がありますが)。
しかし、今の自公政権が打ち出している政策はあまりに中途半端であり、大都市部を中心に一定以上の感染者いる現状において、今のやり方で感染を封じ込めることはおよそ不可能です。
多くの国民が、緊急事態宣言に従わなくなりつつあるのは、自粛疲れということもあるでしょうが、真面目に自粛しても感染が収まらないであろうと多くの国民が感じていることが大きいのではないでしょうか。
実際、緊急事態宣言がいかに的外れなものであるかは、現実に歓楽街、オフィス街が混在する関内あたりで生息しているとよくわかります。
たとえば、飲食店ですが、緊急事態宣言下で午後8時に閉まるとなると、午後6時ころからは店は非常に混みあいます(逆に、時短要請に従わないところは、午後8時以降に混み混みとなっているようでした)。
電車も普段と異なり、午後8時すぎまでが非常に混雑しますし、スーパーなども早くに閉まってしまうため、早い時間帯から混みあっています。
つまり、皮肉なことに、緊急事態宣言によってかえって「密」が作り出されているわけです。
さらに問題なのは、いびつに金をばらまいてまで実施した時短要請にどの程度の効果があったかが疑わしいということです。
最近目にしたある統計において、一般の飲食店での飲食は主要な感染ルートではないという結果が指摘されていました。
確かに、飲食店はもしクラスターになれば商売自体できなくなるので、多くの店が感染対策には気を配っていますし、客もエチケットとして、マスクや消毒、距離を保ち、大声で話さない等、気をつけていますから、一般の飲食店に対する時短要請は感染の抑制という点ではたいした効果がないという意見には十分に首肯できるところがあります(今年1月の時短要請で感染者が減ったのは、一般的な飲食店ではなく、濃厚接触を基本とする性風俗系の飲食店の多くが休業したことが大きかったと見ても矛盾しません)。
にもかかわらず、政府や東京都知事などは、相変わらず、飲食店での飲食が諸悪の根源であるがごとき発言を繰り返し、緊急事態宣言下で、飲食店の時短の要請に加え、ここに来て酒の提供を止めるようにとまで言い出していますが、何を根拠にそんな妄言を吐くのでしょうか?
政府や東京都知事などの発言は、メッセージとして重いものであり、人々の心理や行動に大きく影響するのですから、きちんとしたエビデンスが示されなくてはならないはずです。
私たち国民は、そのことに疑問を持ち、エビデンスを示すよう、声を上げなくてはならないと強く思います。
「GO TO~」についても、政府は感染を助長したことを認めていませんが、感染者数の推移からすれば、その影響は明らかだし、前倒しで再開した宮城県の感染者数の増加という事実も、「GO TO~」が感染拡大を持たらした可能性が極めて高いことを裏付けています。
しかし、政府は、相変わらず、「GO TO政策」に執着しています。
最近も、奈良県では、「GO TO~」再開を決め、医療者からの反発を受け、慌てて取りやめたということがあり、奈良県が批判されましたが、「GO TO~」の再開については「GO TO~」を推進する政府側の組織があり(さらにいえば、その背後で甘い汁を吸おうとしている連中がいます)、そこからの働きかけがあるわけで、最も批判されるべきは、相変わらず「GO TO~」に執着する政府の姿勢であるべきです。
飲食店や集客施設を感染の巣みたいに取り上げて自粛要請のターゲットにしているのは、「GO TO利権」隠しのためのスケープゴートではないかとすら感じます。
もちろん、観光、旅行業界は大変です。
しかし、コロナ感染の終息が見えない状況で、大都市圏から地方への感染の広がりを助長する「「GO TO TRAVEL」も、飲食店への自粛要請と明らかに矛盾する「「GO TO EAT」も、それ自体、いびつな政策だし、依存を招くだけで、長い目で見れば逆効果になりかねない愚策に違いないと思うのです。
とにかく、「GO TO~」にせよ、飲食店などへの時短要請の協力金にせよ、国民の税金が使われています(本稿に直接関係はありませんが、オリンピックにも、リニア新幹線建設にもです)。
コロナ対策と称して、政権に近い人間や組織が甘い汁を吸っていると実態があるわけで、詰まるところは、私たちが汗水たらして働いている中で、国民から吸い上げられた税金の使い道に関することに、私たち国民が関心を持って声を上げなければ、国民の命や健康を守るための政治なんておよそ実現不可能に違いありません。
話を戻します。
前にも書きましたが、今の日本でコロナ感染が収まらず、だらだらと感染が続く主な理由を2つ挙げます。
1つ目は、ずっと指摘していますが、コロナの場合、無症状感染者と健常者の見分けがつかず、一見すると健康に見える無症状感染者が日常生活の中で他人と濃厚接触をし、感染を広めてしまうためです。
性風俗系の店に行けば当然感染は広まりますが、そうでなくても身近な人との濃厚接触もあります。
症状の発現時期と他者への感染が広がる時期が一致するインフルエンザとの違いは決定的に大きく、コロナ感染が容易に収まらない根本原因はここにあります。
2つ目は、これも前に指摘しましたが、大都市、特に東京圏(神奈川、千葉、埼玉の通勤圏を含む)では、すでに潜在的な感染者数がけた違いになっている状況に陥っていることです。
大都市圏で潜在的な感染者数がけた違いになっているということは、緊急事態宣言が発令されて多少感染者数が減っても、潜在的な感染の広がりが完全に抑えられない以上、他者との接触の機会が増えれば当然に感染も広がるという悪循環が繰り返されることを意味します。
つまり、1つ目のコロナの特質を理解した上で、2つ目の大都市圏の潜在的な感染者数の増大をいかにして抑え込むかという発想で対策を考えない限り、将来、コロナが弱毒化するか、真に有効なワクチンが国中に行き渡るまでは、いつまで経っても感染の終息は見込めないことになります。
なのに、今年1月の緊急事態宣言以降、東京圏では全体的に検査人数が減っているとの王道もありますが、表向きの感染者数を少なく見せたいという意図が見え隠れしていると感じます(オリンピックもあるし、感染者数が増えれば政権や自治体のトップが批判を浴び、選挙で不利になるということもあるのかもしれません)。
しかし、これは本末転倒というほかありません。
この点、コロナのことについて騒ぎすぎだと発言する人もいますが、その考え方も無責任で間違っていると思います。
何度も書きましたが、コロナの恐ろしさは、無意識のうちに感染者となり、他者に感染を広げ、油断すると、あっという間に爆発的な感染を引き起こし、さらに、基礎疾患を抱え、免疫機能の衰えている人を死に至らしめる疫病だということにあります。
自分は罹っても平気だとかという発想の人間は、他者に思いやりを持つ必要がないと言い放っているに等しい愚か者です(自分の身近な人がそのような目に遭った時、どう感じるのでしょうか)。
インドでは、たった3日で100万人を超える感染者が出たそうです。
イエメンでは墓を掘る人が足りないそうです。
コロナ感染が爆発的になるということはそういうことです。
いかにして潜在的な感染者を把握するかといえば検査の徹底しかないし、潜在的な感染者増加の状況で観戦を封じ込めるには、ロックダウンしかありません。
最後に言いたいのは、オリンピック利権だか、GO TO利権だか何だか知りませんが、自公政権が中途半端な政策でお茶を濁そうとしている内に、多くの国民が日に日に苦境に追い込まれている状況を何としても変えなくてはならないということです。
そのためには、真に国民のために働こうという気持ちを持ち、国民の痛みをわがこととして受け止める政治家が、勇気をもって党を超えて団結し、ドラスティックな発想の転換で、思い切った政策を打ち出してもらいたいと思いますし、今年行われる国政選挙では、私たち国民も、保身や目先の利益なんかではなく、大局的に国民のために汗をかいてくれる政治家を選んで投票すべきだと強く思います。
日々雑感~ついに前期高齢者になりました。
昨日、私は65歳の誕生日を迎え、前期高齢者の仲間入りをしました。
こんなカテゴライズはクソだとか、いろいろと思うことはありますが、この日を迎えられたこと、そして、多くの人たちに助けてもらったことを心から感謝し、心から御礼申し上げたいと思います。
ところで、ここ数日、昔からの友人たちと話す機会がありました。
中でも、誕生日に話をした高校時代からの親友とは高校入学前の2月に出会っているので、出会いから50年という節目をすでに迎えたことになります。
他人にはどうってことのない話ではあるのですが、ちょっとそのことを書いてみたいと思います。
どうやって彼(こんがらがるので、とりあえずKとしておきます)と出会い、そして親しくなって行ったかについて思い返してみると、実際、人生には奇跡のような偶然の重なりというものが存在するのだと不思議な気持ちになります。
Kと最初に出会ったのは、広島の修道高校の受験会場でした。
実は当時の成績では、修道高校の合格は無理だということはわかっていました(また、うちは貧乏なので、私立はだめだとも言われていました)。
しかし、ある日、中学3年の時の担任に呼ばれて「修道と広大付属を受けろ」といわれたのです。
すかさず「無理です。受かるわけないから」と断りました。
しかし、担任は、「とにかく受けろ」の一点張りで、両親が説得されてしまい、結局受験することになりました。
あとで聞いた話ですが、担任の狙いは二つあったそうです。
一つは、私がいつもぎりぎりにならないと勉強に身が入らないタイプの生徒だったので、受験日程をまめに入れた方がいいというものでした。
もう一つの狙いは、私のためということではありませんでした。
実は、同じクラスで一番勉強ができる生徒がいて、彼(こんがらがるので、とりあえずIとしておきます)が私と親しかったのですが、Iの志望校が修道と広大付属だったのです。
なので、担任は、私が一緒に受験すればIがリラックスして受験に臨めるということも考えたというのです。
その担任はすでに亡くなられており、今となってはその真偽は不明ですが・・・。
ともあれ、私は友人Iと待ち合わせ、一緒に修道高校に行き、受験会場をうろうろしていました。
すると、そこでIがある受験生と挨拶をしたのです。
人懐っこい、ジャガイモみたいな顔の男でした。
その時、私は二人の会話をただ横に立って聞いていました。
修道高校の受験が終わり、今度は広大付属の受験に臨みました。
その時も、Iと待ち合わせて広大付属に行き、受験会場をうろうろしていたのですが、またもや修道の時と同じ受験生と出くわし、そこで二人はまた挨拶をしていました。
結局、私の方は番狂わせなどなく、修道と広大付属に落ちて地元の県立国泰寺高校に入学しました。
そして、入学初日、1年7組の教室に行くと、なんとその同じ教室に修道と広大付属で出会ったジャガイモみたいな顔をしたKがいるのです。
その時は、お互いに奇妙な偶然に驚き、あらためて挨拶をしました。
Kは非常に人望のある男で、その後クラス委員となり、私たちの代の生徒会長を務めることになります。
また、Kとの縁は1年生の時だけでなく、3年間ずっと同じクラスになりました。
一方の中学時代のIとは高校は別々になったものの、もう一人仲の良かった友人Oと放課後に会い、Iの家にしばしば泊まるなど、その関係は続いて行きます。
ただ、徐々に知ることになるのですが、私とKを引き合わせたIとKの関係は、その当時、若干微妙なものでした。
実は、IとKは元々同じ中学に入学していたのですが、Iは途中から私のいる中学に転校して来ました。
Iが元々いた中学は、市内で最も荒れていることで有名でした(広島の地元の人間なら大体わかるはずです)。
そこで、Iは上級生の不良たちから目をつけられ、家の前で不良たちが待ち構えているような状況になっていたので、ご両親がやむなく転校させたのです。
一方のKは、そのままその中学を卒業するのですが、彼は中学でも生徒会長を務めています(あとで聞いたら、親の引っ越しで一瞬だけ転校したものの、つまらないと感じて元の中学に戻ったそうなのですが)。
KはIが転校に追い込まれた事情を知らなかったこともあって、高校入学当時は、Iに対して複雑な思いを持っているような話をしていました。
それはともかく、高校卒業後も、私はK、そしてIやもう一人の中学時代の友人Oとの関係が続きます。
Iは中央大学に進み、困っている人、労働者を助け、世の中を良くする仕事に就きたいといって、司法試験を志します。
一方の私は、音楽をやりたいとほざきながら、だらだらとした大学時代を過ごすのですが、Iとは月に1回以上は、池袋か渋谷で会って、それからどちらかの家に行き、朝方まで酒を飲みながら話をするという関係を続けていました。
いよいよ大学を卒業する間近になり、就職するかどうかを迷っていたのですが、結局、IやKの影響もあり、私自身、世のため人のためにできることをしたいという思いがありましたので、そこから司法試験を目指すことを決めました。
一方のKはさらにピュアで、紆余曲折はありましたが、困っている人の力になりたいといって福祉の仕事を志すようになります。
やがて、私もIも司法試験に合格し、Iは地元である広島に戻り、私は横浜で、それぞれ弁護士になりました。
Iが広島に戻ったことで、IとKとの関係はさらに深まります。
Kは、ある知的障害者の施設で働くようになり、現在はその施設の責任者になっていますが、職場や障害者の問題でもIにしばしば相談するようになりました。
最近では、広島に戻る時は、3人で会うことが多くなっています。
そこに、もう一人の中学時代の友人Oや、なぜかその関係性を気に入って割り込んできた私の大学時代の友人N(彼は現在中央大学の教授ですが)や、ちょっと変わった新聞記者なんかも加わって、何やら猥雑な人間関係が構築されて行ったのです。
Nについていえば、彼の現在の重要な研究テーマの一つは、日本の被爆者運動だそうで、時々、広島に行ってKやIに会い、そこからいろいろな人を紹介してもらったりしながら調査を重ねているそうです。
ここのところ、私は以前にも増して日々の生活に追われ、またコロナの影響もあってなかなか広島に戻れないのですが、近々、広島に戻る計画を練っています。
その理由は2つあります(本当はもう一つあるのですが、この記事と関係ないので省きます)。
実は、Kに腫瘍が見つかり、予後はさほど心配ないそうですが、近々入院して手術を受けることになりました。
一方、Iの方はといえば、4月から広島弁護士会の会長に就任することになったのです。
昨年の夏にもちらっとそんな話を聞いていましたが、ずっと高い志を持ち、時に挫折を味わいながらもぶれることなく生きて来たIが、被爆地広島の弁護士会長を務めることは、とても意味のあることだと思いますし、また、本当に嬉しくて堪りません。
先日、彼らの話を、共通の友人であるNに話したら、一緒に広島に行ってKの快気祝いとIの会長就任祝いをやろうと持ち掛けられました。
話はとんとん拍子に進んだので、今月中には広島で再会することになるはずです。
もしかしたら、もう一人の中学時代の友人O(彼は今和歌山で有機農業を営みながら、経営コンサルタントの仕事をやっています)も日程を調整して駆けつけてくれるかもしれません。
今からその日が楽しみです。
IもOもKも、そしてNも、みんな私にとっては本当に大切な友人です。
Nは大学からですが(それでも優に45年になります)、I、O、Kとの関係は半世紀を超えるものになりました。
しかし、この関係がより濃密で、何物にも代え難いほど貴重なものとなったのは、紛れもなく、あの日、受験会場でIとKが偶然に出会い、そしてまた偶然にKと私が高校で同じクラスになるという、私にとって奇跡のような偶然の積み重ねがあったからだという気がしてなりません。
日々の出来事に関する記憶力の衰えを強く感じるこの頃ですが、修道と広大付属の受験会場でIとKが挨拶した時の情景は今でも鮮明に思い出すことができます。
その偶然が、今に連なっていると思うと、やはり人生は面白く不思議なものだと感じます。
まもなくやってくる4月は新しい出会いの季節ですが、これから進学、進級、就職する人たちにとっても、そこで出会う人が一生の友人になるかもしれません。
そこまでの日々がどんなにしんどかったとしても、なんとか気持ちを切り替えて、前を向いて、わくわくしながら新しい季節を迎えてほしいと心から思うのです。
最後にもう一度、こんな私と長く付き合ってくれている友人たちに、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。
貴方たちがいたから、今、私はここにいることができたのだと、そう感じています。
日々雑感~なすべき基本を見失っている政府のコロナ対応の過ちについて
先日の記事で、コロナウイルス感染拡大の「分水嶺」のことを書きました。
特に、人口密度が高いだけでなく、交通網が発達していて活動範囲が広く、移動も頻繁な大都市圏においては、どのような対策を執っても爆発的に感染者が増えることになる「分水嶺=デッドライン」があるはずで、それを超えないようにするためには、検査の徹底が図られなくてはならないという趣旨の内容でした。
今回は、分水嶺を超えるとどうなるかにつき、イギリスでのコロナ感染の推移を検証しつつ、コロナ対応について、なすべき基本を見失っている菅政権の対応の過ちを指摘するとともに、あるべきコロナ対応について述べてみたいと思います。
あるべきコロナ対応を考えるうえで参考になると思いますので、イギリスでのコロナ感染の推移を取り上げます。
イギリスは総人口が6000万人台ですので、概ね日本の半分強となります。
加えて、日本と同じ島国であり、他国と地続きではないという共通性もあります。
そのイギリスでは、ここに来て感染力の強い変異種が見つかったというニュースもあり、年末年始をまたいで1日の感染者数はずっと5万人を超えています。
感染者数だけを単純に対比すると、まるで対岸の火事のようにも思えますが、イギリスの推移を検証してみると、決してそのようにはいえないと思います。
ざっと感染者数の推移を見て行きますと、イギリスで1日あたりの感染者数が100人台に乗ったのは去年の3月12日ですが、1000人台に乗ったのはそれからわずか9日後の3月21日です。
現在の日本の1日あたりの最多感染者数である4000人台ですが、前述のとおり日本の総人口はイギリスの2倍近いので、4000人の半分にあたる2000人にイギリスが到達したのがいつかを見てみると、3月26日となります。
つまり、1000人台になってわずか5日後なのです。
さらに、3月31日には3000人台、4月3日には4000人台、そしてその2日後の4月5日には5000人台になっています。
要するに、2000人台から5000人台に到達するまでにわずか9日しかかかっていないことになるわけです。
これを日本に当てはめれば、4000人台になったのが12月31日ですから、1月9日に1万人に達することになります。
もちろん、当初から急激に感染者数が増えた欧州の一角であり、検査数も異なるイギリスとの単純比較はできませんが、この急激なネズミ算式な増え方こそがコロナ感染の恐ろしさです。
前にも書いたとおり、コロナ感染の厄介なところは、無症状の感染者が自身の感染を自覚できないまま感染を広げてしまうことであり、そうである以上、人口が密集するエリアでは、一定のラインを超えれば加速度的に感染者数が増加するであろうことが容易に想像できるからです。
イギリスに限りませんが、世界中で感染者数が加速度的に急激に増加してきたという現実を見るにつけ、超えるとネズミ算式に急激に感染者が増えることになる「分水嶺=デッドライン」なるものが存在することは間違いないでしょう。
ちなみに、その後のイギリスにおける感染者数の推移を見ると、しばらく数千人台が続き、夏場にかけていったん感染者数が落ち着きを見せますが、秋に入って再び増加し、10月に入ると1日あたりの感染者数は1万人台から一気に2万人台となり、11月には3万人台となって、12月の下旬には5万人台に到達しています。
今のイギリスの数字を人口比で日本に当てはめますと、1日あたりの感染者数は10万人を超えることになるわけですから、そう考えただけでも本当に恐ろしい話です。
あくまでも統計的な比較ではありますし、イギリスでの最近の急激な増加は、感染力が強いとされる変異種の影響かもしれませんが、とにかく、コロナの場合、感染が急激に広がり始めると、そこからわずかな期間で桁違いの感染者数になってしまうであろうことを念頭に置いて政策を考えなくてはなりません。
翻って日本の状況を見ますと、感染者数がここに来て右肩上がりで増加しています。
夏場の8月の増加は措くとして、10月以降で見て行くと、11月5日に1000人台、11月18日に2000人台、12月17日に3000人台、12月31日に4000人台、そして1月5日は4900人強とイギリスほどではないにせよ、十分に急激な増加傾向といえます。
中でも、東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)の増加は顕著です。
それは、検査数との対比でみても明らかです。
ある報道によると、東京で大みそかに1300人台を記録していますが、これはその2日前の検査結果を反映したものとのことで、その日の検査数は1万件を超えていたそうです。
それに対し、1月4日の800人台の感染者数は、その2日前の検査数が3000人台であったとのことですので、対比すると、もし1万人規模で検査が実施されていれば、2000人を優に超える人数がはじき出された可能性があることになります。
もちろん、このような検査数との単純比較の信ぴょう性については異論があるやもしれませんが、問題なのは検査数が少なすぎるということであり、そのため、本来把握され、移動が制限されるべき無症状の感染者が野放しになってしまっているであろうということなのです。
ところで、このような急激な感染者数の増加を受け、菅政権は、国民からの非難と支持率の急激な低下に恐れをなしてか、Go toを止め、緊急事態宣言の発令を決めました。
もっとも、現時点までで示されている今回の緊急事態宣言の内容を見ると、飲食業については午後8時までの営業自粛を強く求めるようですが、それ以外の業種や、当面の国民生活に影響のあるものについては、どうやら幅広い規制をかけない方向で検討しているようです。
しかし、それではあまりに中途半端で効果は乏しく、またずるずるとコロナ感染が遷延化して行くことは避けられないと思います。
本気でコロナ感染を封じ込めようというのであれば、執るべき基本政策は二つに一つでしょう。
一つは、1か月間のロックダウンです。
生活必需品の購入などのための外出を除き、また医療や福祉、役所などの欠くべからざる生活インフラに携わる人を除き、すべての外出を制限するという方法です。
感染から治癒までが概ね2週間とすると、仮に家族の中に感染者がいたとしても、2クールで治癒させることができますし、無症状の人は外出しなければ他者に移すこともないわけです(もちろん、症状の出た人は病院に行くことになります)。
その場合、外出が制限されるすべての国民に対して、一か月分の生活費や避けられない支出を補償することがセットとなります。
もう一つの方法ですが、ロックダウンほどの厳しい制限をかけず、移動や接触を許容するというのであれば、その代わりに徹底したPCR検査の実施を義務付けるという政策をセットにします。
何度も指摘しているとおり、無症状で無自覚な感染者が外出して他者と接触することを容認している限り、感染拡大は避けられません。
したがって、もし、外出を強く規制しないというのであれば、最寄り駅などでのPCR検査を義務付けるなどして、検査を移動、外出の条件とするほかないと思うのです。
特に、東京圏、大阪圏など、県境をまたいでの移動が当たり前の大都市圏では、徹底した感染の洗い出しが不可欠です。
検査は、規制の実施に伴い、2~3週間の間を置いて2回行えば足りるでしょう(もちろん、感染者の濃厚接触者についてはそれとは別に実施すべきですが)。
ほかにも医療への手厚い補助など、組み合わせるべき政策はいろいろとあいますが、基本とすべきはこのいずれかの政策を措いてほかないでしょう。
とにかく、今の政府の中途半端なやり方ではコロナを短期間で収束させることは不可能です。
特に、東京圏ではすでに潜在的な無症状感染者が激増しているので、感染者の徹底した洗い出しもせず、中途半端な規制を行うだけでは、無症状で無自覚な感染者が他者と接触するということを防げず、今後、一気に爆発的な感染増となる可能性が高いし、地方への波及も防げません。
国会議員の人たちには、党派を超えて、一刻も早く、その場しのぎではなく、コロナの徹底的な封じ込めにつながるような政策を決め、それを実行してもらいたいと強く望みます。
日々雑感~この国に正義はあるか?
安倍前首相が「桜を見る会の前夜祭」に関する疑惑で、東京地検特捜部が「嫌疑不十分不起訴」としたとの報道がありました。
その理由は、「桜を見る会の前夜祭」のホテル利用料の補填をしたことについて、自身は知らなかったという安倍氏の弁解を覆す証拠がないということのようです。
しかし、こんな説明で納得する人間なんているのでしょうか(納得した振りをする人間はいるかもしれませんが)。
ましてや、証拠を精査し、被疑者の不自然な言い訳の中にある嘘を見抜いて真実に到達することが生業であるはずのプロフェッショナルの検察官が納得するなんてまずもって考えられないことです。
なのに、不起訴?
しかも、この年末のコロナの大変な時期に、拙速に?
検察がそのような結論を出してしまったなんて、もはやこの国に正義なんてものは存在しないといっても過言ではないのかもしれません。
法治国家である(あった)はずのこの国の現実に深い絶望と憤りを禁じ得ませんので、今日はこの問題を取り上げます。
まず、この「桜を見る会の前夜祭」に関する疑惑について、簡単に問題点を指摘します。
「桜を見る会の前夜祭」は、「桜を見る会」の直前に安倍氏の支援者らを集めてホテルニューオータニで開かれた会食形式の集まりですが、参加者が負担した会費は5000円にすぎませんでした。
しかし、腐っても(言葉のあやです)ニューオータニですから、5000円で済むはずはありません。
そこで、不足分を安倍氏側が補填していたのではないかという疑惑が持ち上がることになります。
もちろん、そうなれば、選挙区の選挙民、支援者に対する利益供与となるので公職選挙法違反の問題も生じますし、収支報告書への不記載もあるため政治資金規正法違反の問題も生じます。
それを恐れてのことだったのでしょう。この問題について、安倍氏は、森友や加計の時と同様、補填の事実を否定し、ホテル側から領収証を渡されたことについても否定するなどして、参加者の名簿も開示せず、国会の質疑で、しらを切る姿勢を取り続けます。
今にして振り返ると、今年8月末の突然の首相退任表明もこの問題が表面化することが避けられないと見たからなのかもしれません。
そしてこの退任表明からわずか4ヶ月弱で、不起訴処分での幕引きが図られようとしているわけです。
皆さんはどう感じておられるでしょうか。
私は、最初に書いたとおり、この国の現実に絶望しています。
もはや正義はないのだと。
かつてボブ・ディランが、無実の黒人ボクサーを救えと歌った「ハリケーン」という曲の中で、「この国では正義はゲームでしかない」と訴えていましたが、まさに、今の日本では、正義なんてものは、権力者の都合で、恣意的に操作できる歪んだものに成り下がってしまいました。
安倍氏の弁解はおよそ信じがたいものであることは、事件の経緯を振り返れば明白です。
たとえば、この桜を見る会の前夜祭で行われた補填は、この年が初めてではなく、少なくとも5年間は繰り返されているとのことですが、1回限りのことならいざ知らず、毎年、多くの選挙民、支援者を呼び寄せて、その費用の一部を負担するということが、秘書だけの判断でなされていたなんてこと(少なくとも安倍氏が全く知らないなんてこと)があり得るでしょうか(不起訴後の会見では、さらにその原資が個人の預金からのものと述べていますので、なおさらおかしなことになります)。
また、国会での質疑で、彼は、補填を何度も強くきっぱりと否定していますが、そうだとすると、一国の首相ともあろう人物が、秘書の虚偽の説明を鵜呑みにし、自身ではその裏付けを取ることもなく、国会できっぱりと疑惑を否定し続けていたことになります。
しかし、実際にいくらかかったかについては、一方当事者であるホテル側に確認すればすぐに明らかとなったはずですし、実際、野党側からの照会には回答がなされ、答弁の矛盾点が示されたにもかかわらず、安倍氏はその後もまったく検証を試みることすらしていません。
実際、ニューオータニのトップは、安倍氏の支援者の一人とされており、本当の会費がいくらであったか、領収証を誰宛に発行したかなどは、なおのこと、容易に確認し得たはずです。
それをやろうともせず、国会で嘘を垂れ流し続けたということ自体、ほかならぬ安倍氏自身が嘘であることを承知していたからというのが、ごく自然な見方でしょう。
いくら、ニューオータニの代表者が安倍氏の支援者であるとしても、さすがに多くの出席者がいる集まりについて、安倍氏の嘘に沿うような証拠を公に出せるはずはなく、ニューオータニに対して証拠の開示を求めることは墓穴を掘る(嘘がばれる)ことになるからです。
つまり、国会での審議中に、安倍氏がニューオータニに証拠開示を求めなかったこと自体が、「わかって嘘をついている」ことを裏付ける重要な事実となるのです。
変な言い方かもしれませんが、秘書のせいにして逃げ切るなら、国会審理中に「ホテルに確認したところ、補填の事実が明らかになった。秘書が勝手にやっていたことだが、すべて私の不徳の致すところで、責任を痛感している」とでもいえばよかったわけです(まあ、責任は痛感しても、責任を取らないのが安倍流なのですが)。
そこまで知恵が回らなかったか、今回もごまかしていれば逃げ切れると読んだのかわかりませんが、国会での疑惑追及が進行中の間の安倍氏の振る舞い自体、一連の補填が安倍氏の指示もしくは了解のもとに行われ続けたことの証左といえるでしょう。
ところで、安倍氏の不起訴と同じ日に、くしくも安倍氏が検事総長にと目論んでいた黒川元検事長の賭け麻雀疑惑について、検察審査会が「起訴相当」の結論を出したとの報道がありました。
安倍氏についても同様の判断が出ることを予感させるニュースですが、裏を返せば、この国の刑事司法のメインエンジンである検察庁がまともに機能しておらず、権力に取り込まれてしまっている現実が二重に浮き彫りになったともいえます。
黒川元検事長の賭け麻雀疑惑について、今後、検察がどのような結論を出すのかにも注目が集まりますが、安倍氏の処分についていえば、今後の展開による条件付きの状況ではあるものの、検察に対して強く求めたいことがあります。
おそらく安倍氏の不起訴処分については、今後、検察審査会への申立がなされるでしょうから、そこで「起訴相当」もしくは「不起訴不相当」の結論が出された時には、今度こそ、勇気を見せて、検察こそが正義の実現の担い手なのだという気概を私たち国民に示してほしいのです。
特に、担当となる検察官に対しては、もし上からの圧力があっても、決してそれに屈することなく、場合によっては、内部告発をしてでも、安倍氏を正式に起訴してもらいたいと思います(この件は、検察審査会で2回起訴相当の判断が出る可能性が十分にありますが、そうなること自体、検察の死を意味するといっても過言ではないでしょう)。
最後に申し上げたいのは、こうした問題の根っこにある、今の自民党中心の露骨な利権誘導型政治を終わらせない限り、この国の未来は暗澹たるものになるということです。
多くの国民が感じているように、コロナ感染再拡大という今の日本の状況もまた、やはり自民党の露骨な利権誘導型政治によってもたらされた人災の面が大きいといえますが、安倍氏の一連の疑惑もまた同根といえます。
野党は頼りないし、軸がぶれぶれの議員も多いですが、アメリカのように、現状を変えることで政治が浄化されるということには、それ自体、大きな意味があるはずです。
私たち国民一人一人が、常に政治のあり方に関心を持ち、怒りの声を上げなければならないし、そうしなければ本当に手遅れになってしまうと、心からそう思うのです。