日々雑感~「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちPART2
前回に続いて、「半沢直樹」の中から、心に沁みた言葉を取り上げます。
今回は、第4話の中で半沢直樹が東京セントラル証券の部下たちに語り掛けた熱いメッセージです。
堺雅人がすごいのは、難しい長台詞を、本当に役になりきって画面を飛び越えるほどに力強く伝えきるところで、その真骨頂は、「リーガルハイ」でも観ることができます。
しかも聞くところでは、それをNGなしにやり遂げるというのですから、本当に信じられません。
才能もあるのでしょうが、何より見えないところで準備を重ねておられるに違いないわけで、心から敬服するしかありません。
とにかく、この第4話の長台詞でも、そんな堺雅人の演技の素晴らしさを堪能することができます。
この第4話は前半のクライマックスですが、取り上げるのは、あくどい連中に倍返しを成し遂げた半沢直樹が、いよいよ東京セントラル証券を去るにあたって、部下たちから促され、彼らにメッセージを残すというシーンです。
半沢直樹が伝えるメッセージは、バブル期以降の日本で何が起きていたかを知らない人たちにとっても強く心に響くはずですが、あの馬鹿げたバブルで何が起きていたか、その顛末を知っていれば、より深く伝わると思うので、前半部分と後半部分に分けて取り上げます。
最初、半沢直樹は、「勝ち組負け組」の話をします。
「勝ち組負け組という言葉がある。私はこの言葉が大嫌いだ」「だが、ここに赴任した時によく耳にした。銀行は勝ち組、俺たち子会社の社員は負け組だってな」「それを聞いて反発するものもいたが、大半は自分はそうだと認めてた」「大企業にいるからいい仕事ができるわけじゃない」「どんな会社にいても、どんな仕事をしていても、自分の仕事にプライドを持って、日々奮闘し、達成感を得ている人のことを本当の勝ち組というんじゃないか」
アメリカ的な新自由主義的な方向に舵を切った今の日本は、貧富の差が拡大し、階層が固定化してしまう、そんな社会になりつつあります(もちろん、そうした方向性そのものを変えるべきなのですが)。
ドラマの中で語られたこの「勝ち組負け組」という言葉は、一見すると企業社会におけることのように聞こえますが、今や社会全般で否応なく使われている分類用語ともいえます。
この言葉は自分がどこにいるかを意識づけさせてしまう悪魔の呪文なのです。
半沢直樹は、プロパーと呼ばれ、親会社の社員から蔑まれる子会社の人間たちに、その意識を振り払い、プライドを持って生きるよう勇気づけるのですが、「勝ち組負け組というカテゴライズに囚われてはいけない」というメッセージは、すべての世代に、すべての人たちに通じるに違いありません。
ドラマの中で、半沢直樹はさらに続けてこのような話をします。
「君たちは、大半は就職氷河期で苦労をした人間だ」「そうした事態を招いた馬鹿げたバブルは、自分たちのためだけに仕事をした連中が顧客不在のマネーゲームを繰り広げ、世の中を腐らせてできた」「その被害を被った君たちは、俺たちの世代とはまた違う見方で組織や社会を見ているはずだ。そんな君たちは10年後、世の中の真の担い手になる」「君たちの戦いはこの世界をより良くしてくれるはずだ」「どうかこれからは胸を張って、プライドを持って、お客様のために働いてほしい」
ここはさらに深い発言だと思います。
私が弁護士になった平成元年、日本はまさにバブルの絶頂期でした。
急激な円高に対する極端な金融緩和によってあり余った金が不動産や株式市場に流れ込み、異常な不動産価格の上昇、株高を招き、気が狂ったような異様なマネーゲームが繰り広げられます。
しかし、行き過ぎたバブルを調整するために取られた金融引き締め策の影響もあり、いびつに膨れ上がったバブルはいきなり崩壊します。
そして山が高かった分、谷はいつまで経っても底が見えないほどに深く、以後、バブル、そしてバブル崩壊の後遺症は重く日本社会にのしかかるのです(実際、弁護士の仕事の現場では、その後遺症はまだ終わっていないと感じることがしばしばです)。
ロスジェネ世代やゆとり世代は、紛れもなくその被害者です。
しかし、時代が変わり、彼らが世の中の担い手になる時が必ず来ます。
このドラマの中で、主人公が、バブルを招き、マネーゲームに狂奔した世代を痛烈に批判しつつ、次の世代に対して、「胸を張って、プライドを持って、お客様のために働いてほしい」と訴えかけるそのメッセージは、あの時代を演出した人間たちの愚かさを知れば、より重く、より深いものだといえるでしょう。
かつてのバブルは極端な金融緩和によって後押しされて起きたものですが、今の日本は、安倍政権における「異次元の金融緩和」なるものによって、多くの国民は実感できないものの、一部の大企業は間違いなく、不公正、不公平な形でその恩恵を受け、上げ底の株高、東京などの主要都市における不動産バブルをもたらしています(ドラマの中の「伊勢志摩空港」のような腐った錬金術は、まさに今の日本で現在進行形で起きている現実ともいえます)。
かつて見たあの景色と似たデジャブと感じるのは私だけではないはずです。
そうなると、次に起きるのは、異次元の金融緩和の反動であり、遅かれ早かれ必ずやって来る近未来です。
公正な所得の再分配がなされなくてはならないと強く思いますが、少なくとも、あの馬鹿げたバブルとその崩壊から何かを学び、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなくてはならない、そのためには自分たちの利益の追求のみに奔走するのではなく、お客様(他者)のために働くという姿勢をすべての人が共有する価値観にすることが大切なのです。
半沢直樹の作者である池井戸潤氏は、まさにそんな狂ったバブルとその崩壊を目の当たりにして来た元銀行員ですので、きっとそんなことを思いながら、この作品を作られたのでしょう。
原作のタイトルである「ロスジェネの逆襲」とはきっとそういうことなのだと思います。
「半沢直樹」のお話はまだ続きます。
日々雑感~「半沢直樹」の心に沁みた言葉たちPART1
「半沢直樹」が終わりました。
個人的に堺雅人の大ファンということもあり、また前のシリーズが非常に面白かったので、今回は逃さずリアルタイム視聴しました。
一つのドラマすべてをリアルタイム視聴したのは生まれて初めてのことかもしれません。
始まる前は、前の作品の出来があまりに素晴らしかったこともあり、それを超えた作品に仕上げるのは大変なのではないかとも思っていたのですが、予想をはるかに上回る面白さで、ご多分に漏れず、現在は「半沢ロス」状態となっています。
面白かった要因は、原作が持つストーリーの重厚さと脚本の巧みさによるエンターテインメント性の高さ、そして個々の俳優の演技の素晴らしさにあるのだと思いますが、もう一つ心を惹かれたのは、節目節目で語られる「言葉の力」です。
主として、その言葉は堺雅人の口から発せられるもので、彼の演技力によってその言葉がより強く心を打つとも思うのですが、とにかく、この作品はきっと観る人の心に何かを残すに違いないと思えるのです。
というわけで、「半沢直樹」の中から、いくつか心に沁みた言葉を取り上げてみたいと思います。
まず、その一つ目は、最終回で、半沢直樹の妻である花が半沢直樹を励ます時のセリフです。
追い詰められ、いよいよ最後の行動に出る前の夫婦の会話の中で、花が、これまで懸命に闘ってきた半沢を励ますために発したものですが、その途中からを取り上げます。
「何があったか知らないけど、もう頑張らなくていいよ」「直樹は今まで十分すぎるくらい頑張った」「いつもいろんなものを抱えてボロボロになるまで戦って、必死で尽くした銀行にそれでもお前なんかいらないなんて言われるならこっちから辞表たたきつけてやりなさいよ。サラリーマンの最後の武器でしょ」「今までよく頑張ったね。ありがとう、お疲れ様」「ていう気持ちでいればとりあえず少し気が楽になるでしょ」「仕事なんてなくなったって、生きてればなんとかなる」「生きていれば、なんとかね」
この言葉に心を打たれた人は多かったと思います。
何といっても、この放映日の朝、女優の竹内結子さんが亡くなり、どうやら自殺ではないかとのニュースが流れたばかりでした。
お子さんを二人抱えながら、また女優として立派に成功したと見られている中で、なぜ彼女は死を選んでしまったのか、多くの人はショックを受けたと思います。
竹内結子さんに限らず、ここのところ、著名な俳優の方たちが続けて自殺しているということもありますが、おそらくこの花のセリフは、今の国民に向けられた励ましのメッセージだったに違いありません。
今回のこのドラマは、まさにコロナ禍の真っ最中にいろいろな制約を受けながら制作されたわけで、2~3か月のクールの作品でありながら製作期間は7ヶ月にも及んでいます。
このドラマではずっと撮影と並行してドラマの脚本が仕上げられていたとの情報もありますが、制作者たちは、コロナの影響が長引き、より深刻化して行く状況下で撮影と同時進行で作り上げて行かれたこのドラマの脚本に、コロナの影響で経済的に苦境に追い込まれ、苦しむ国民への想い、願いを籠めたのだと思うのです。
竹内結子さんについていえば、もし、彼女がもう一日思いとどまって「半沢直樹」を観て、花さんの言葉を聞いていれば、自殺せず、生きることを選んでくれていたのではないかという気すらしますが、花さんが発する言葉に勇気づけられ、また竹内結子さんのことと重ね合わせて涙した視聴者は多いと思います。
それほど、花さんの「生きてさえいればなんとかなる」という、一見何気ない言葉には力と深さが感じられるのです。
実は、このドラマの放映の後、友人と会っている時にも同じような話が出ました。
その時にこんな話をしています。
「実感としては、生きている内の99%の時間は苦しいけれど、残りの1%で報われると、『ああ、生きていてよかった』と思う。だから苦しい時間の方が圧倒的に長いかもしれないけれど、あきらめさえしなければその先には労苦が報われる時がきっとやって来る、そう信じればなんとかやっていける」
花さんの言葉の意味とは少しニュアンスは違うかもしれませんが、生きることの苦しさの向こう側にきっと明るい未来があると信じたいし、そのためには、もし今の場所がだめなら、命を絶つのではなく、逃げ出せばいいと思うのです。
花の言葉はちょっと長いセリフなので流行語大賞になることはないかもしれませんが、観た人に踏みとどまって前を向くきっかけを与える名言だと思います。
まだ取り上げたい言葉がありますので、続きはまた書きます。
日々雑感~コロナリスクと向き合う医療者、医療機関にこそ手厚い補助を!
先日の記事で取り上げたことですが、医療事件で相談に乗っていただいている協力医が所属しておられる県内のある医療機関では、採算度外視で、コロナ感染のリスクのある発熱患者を受け入れているとのことでした。
そして、このままの状況が続けば、病院が潰れるかもしれないという危機感を訴えておられました。
一方で、同じエリアのある総合病院は、発熱があるというだけで、診療を断っているそうで、発熱患者については、コロナ感染を避けるため、救急搬送すら受け入れていないそうだということで、いろいろと思うところもあり、記事に取り上げたわけです。
しかし、その後の報道で、その協力医が所属しておられる病院内でコロナ感染が起きてしまったことが明らかとなりました。
そこで、あらためて、この問題について取り上げてみたいと思います。
最初に結論めいたことを申し上げますが、記事のタイトルにもあるとおり、政府も自治体も、「採算度外視で、コロナ感染のリスクのある発熱患者を受け入れている医療機関や医療者」に対してこそ、より手厚い補助をすべきです。
政府は、金融市場にじゃぶじゃぶと金をつぎ込んだり、別の機会の取り上げたいと思いますが、感染が治まらず、再拡大している状況下で「GO TOキャンペーン」こと「コロナ感染を全国に広めつつ、自民党の有力政治家のお仲間に美味しい思いをしてもらいましょう的キャンペーン」に巨額の資金を投入したりしていますが、ずれているとしかいいようがありません。
もちろん、すそ野の広い旅行業界、観光関連業界を活性化するための政策の必要性は否定しませんが、手法も誤りだし、何といっても優先順位を間違えていると思います。
今何よりも大切なことは、コロナ感染を抑え込むことであり、それと並行してなすべきことは、将来に向けて継続的に感染を抑え込むような仕組みを構築することです(もちろん、苦境に陥っている事業者、国民への補助は車の両輪で必須ですが)。
そうしなければ、個々の業種に対する活性化策も感染拡大を招く要因にしかならず、結局のところ、活性化どころか、コロナ感染が長期化してしまい、逆効果になってしまうからです。
であるとすると、優先すべきは、医療の最前線で、コロナリスクと向き合う医療者、医療機関に対して経済的な援助、必要な医療物資の手当てを行い、特に、コロナリスクを積極的に向き合っている医療者、医療機関に対しては、特に手厚い補助を行うことだということは火を見るより明らかです。
東京女子医大病院では、退職希望者が数百人も出ているという報道がありましたが、逆に、こんな時だからこそ、医療者にはプラスαの収入が保障されるような仕組みを作ることで(もちろんそれだけではなく、医療安全、保育所の確保など複合的な手当てが必要ですが)、医療者が医療現場で働こうと思える動機付けにつなげるべきです。
あと、コロナに感染した医療者に対する差別、偏見も起きていますが、何を考えているのかといいたくなります。
先日、医療事件で協力医に相談するため、ある都内の医療機関を訪れたところ、ちょうどそこにPCR検査を予約していた方がやってきたのですが、それだけで妙に緊張してしまいました。
しかし、よくよく考えてみれば、コロナ感染の可能性のある患者に対し、検査や診療行為を行う医療機関においては、それこそが日常です。
診察、治療、手術もそうですが、入院患者で容態が悪ければ、体位交換をしてあげたり、ふろに入れないなら、清拭をしてあげたりと、何から何まで濃厚接触そのものなわけです。
コロナ感染の可能性のある患者に対する医療に関わる医療者の人たちは、自身が感染するリスクと向き合いながら、患者の命や健康を守ろうとしているわけで、心からリスペクトされるべきだと思うのです。
もちろん、医療機関にとっては、経営上の不利益も非常に大きいといえます。
前にも書きましたが、発熱患者は他の患者と同室というわけには行きませんので、コロナ感染の可能性のある患者を受け入れるだけで、収益的にはマイナスであり、さらに感染者が出ると、外来診療をいったん止めなくてはならないわけで(協力医のおられる病院はまさにそうなりました)、ただでさえ、今の医療機関は経営的に厳しいといわれる中で、使命感をもって取り組み医療機関を破綻させるようなことは絶対にあってはならないし、今こそセーフティネットとしての医療を守るために最善を尽くすべきです。
もちろん、医療者への偏見を取り除くことも必要であり、メディアにおいても、コロナと向き合う医療者、医療機関の置かれた状況を、敬意をもってキャンペーンのようにして取り上げてもらいたいと思います。
事件日記~コロナ危機と「再生手続」
給与所得者や個人事業者の方が多額の負債を抱え、債務整理の相談に見えて法的な整理を選択する場合、裁判所の手続としては破産か個人再生の両方の選択肢があることについては、前にもこのホームページで取り上げたことがあります。
弁護士としては、その場合、できる限り個人再生手続での法的整理を実現してあげたいと考えるわけです。
もちろん、個人再生手続についても当然ながら一定の要件があり、要件にあてはまらず、申立自体ができないケースもあるわけですが、ハードルが高くても、依頼者とともにそのハードルを乗り越え、再生計画認可にたどり着ければ、自宅を処分しないで済むであるとか、これまでどおり事業を続けられるわけで、築き上げた生活基盤を維持できることになれば、その満足度は非常に高いものがあります。
今回のコロナ危機の実体経済、国民生活への影響は非常に重大ですので、ぎりぎりの状況における選択肢ということで、個人再生手続について取り上げてみたいと思います。
コロナ危機の影響は様々ですが、現状での急な収入減少は、住宅ローン、自動車のローン、事業の運転資金、子供の学費などの避けられない支出を抱えている方にとっては非常に大きなダメージとなります。
そして、いよいよ返済が難しくなれば、債務整理を検討しなくてはなりませんが、経験的に申し上げると、もう少し早い段階で相談に来てもらえれば別の選択肢があったのにと感じることは決して稀なことではありません。
前述のとおり、抱えた債務に対する法的整理の方法としては、大きく分けて破産と再生手続があるのですが、破産と異なって、再生手続を選択すれば、前述のとおり、不動産を残し、商売も続けて行ける可能性があります。
もちろん、再生手続にも要件があり、そもそも要件を満たしていない場合もあるのですが、要件を満たすかどうかが微妙な場合に、再生手続前提で弁護士が介入し、生活を立て直しながら、再生の要件を満たすように準備をして行くこともケースによっては十分可能なことです。
たとえば、弁護士介入により、債権者への返済をいったん止め、当面の経済的な余力を確保し、ご自身の収入増に注力してもらい、それをしばらく続けながら再生手続の最重要要件である将来の安定した収入の見込みを認めてもらえるよう実績を積み上げて行ければ、要件クリアとなります。
また、自宅の不動産を保有し続けたいのであれば、原則として住宅ローンの支払いは続けないといけませんが、滞納が続くと代位弁済がなされてしまい、そうなると再生手続における住宅ローン特別条項の適用が受けることが非常に難しくなって、不動産を手放さざるを得なくなります。
そうならないためには、代位弁済されてしまう前に、弁護士が介入して他の負債の支払いを止め、住宅ローンだけは優先的に支払えるようにし、あわせて早期に住宅ローンの債権者である金融機関との話し合いを開始しておくことが肝要となります。
再生手続の場合、清算価値チェックシートで資産評価を行った結果にもよりますが、多くの場合、住宅ローン以外の一般債務は5分の1程度に圧縮され、それを3年もしくは5年の分割払いで返済すれば足りることになりますから、この手続を利用するメリットは非常に大きいといえます。
しかし、上記のような要件の制約があり、またタイミングを逸して経済状況が厳しくなれば、活用できたはずの再生での生活確保が不可能となってしまうことになりかねません。
ですので、本当に切羽詰まるよりも前に、早め早めに再生手続を利用できる見込みについての検討を開始すべきです。
なお、手続費用ですが、弁護士が申立代理人となる場合とそうでない場合とでは裁判所に納める予納金の金額が少し違ってきます。
これは、申立代理人である弁護士が、裁判所の個人再生委員の仕事の一部を負担するため、その分予納金を低くしてくれるのです。
もちろん、弁護士に依頼するとなると弁護士費用がかかりますが、分割に応じてくれる弁護士もいますし、再生手続には前述したようなテクニカルな要素もありますので、手前味噌ではありますが、弁護士に相談することをお勧めしたいと思います。
日々雑感~コロナ危機のどさくさに紛れてでたらめな法改正を強行しようとした安倍政権の亡国的愚行に強く抗議しますPART1
コロナ危機に対して、後手後手で不十分な対応を重ね、国内外で批判を浴びている安倍政権が、緊急性の高いコロナ危機への対応をおろそかにしたまま、どさくさ紛れにでたらめな法改正を強行しようとしました。
その内の一つは、検察官の定年延長法案ですが、ほかにも種苗法の改悪という問題があります。
それぞれ、看過し難い重大な問題を含んでおり、多くの反対意見があるにもかかわらず、また、今は何より、多くの国民の命や健康、そして経済的基盤が危殆に瀕しているといっても過言ではなく、機敏できめ細やかな対応が必須であるコロナ危機の真っただ中であるにもかかわらず、よりによってこのタイミングでどさくさ紛れに国会に上程し、成立を強行しようとしたのです。
このタイミングということ自体、国民の健康や生活を守る覚悟がないのだという意味でとんでもないことですが、それぞれの法案が、不要不急どころか、有害で亡国的なものだということがさらに大問題なわけです。
というわけで、今回は、この問題を取り上げてみます。
まず、検察官の定年延長法案ですが、この法改正の目的が、時に国家の権力者の不正をも断罪することができる検察という組織を時の為政者が牛耳るためにほかならないことは、この法改正の議論の経緯を見れば明らかです。
とりあえず、今国会での成立は見送られましたが、秋以降の成立を目論んでいる節もありますし、的外れな議論がされていると感じるところもありますので、経緯を振り返りつつ、この問題の本質を考えてみたいと思います。
この法案が出てくるきっかけは、今年の1月末の時点で、安倍政権が、「検察庁の業務遂行の必要性」を理由に、63歳を迎える東京高検検事長の黒川弘務氏の定年を半年延長する閣議決定をしたことにあります。
現在の検察トップである稲田伸夫検事総長は、今年の7月に交代時期を迎えるため、黒川氏の定年が8月初めまで延長されれば、稲田検事総長の後釜に据えることが可能になるので、そのための閣議決定ではないかとの疑念が抱かれることになりました。
そもそも、検察庁法は定年を63歳と定めており、しかも同法には定年延長の規定はないので、その点を指摘されると、安倍政権側は、定年延長の根拠は国家公務員法であると説明します。
しかし、直後、安倍政権側の説明は、かつての政府答弁と矛盾することが明らかとなります。
1981年に当時の政府が、「国家公務員法の定年延長は検察官に適用しない」と国会で答弁しており、人事院も、この政府答弁が現在も生きていることを明言したのです。
つまり、黒川氏の定年を半年延長するとの閣議決定自体、法律違反の疑いが強くなったのです。
これについて、森雅子法相は、この法解釈を変更したと強弁し、書面の存在について確認を求められると、口頭で法解釈を変更したとまで言い張り、国会の議論は当然ながら紛糾することになります。
そうした経緯の後、突如として出て来たのが、国家公務員法の改正とくっつけた形での検察官の定年延長法案だったわけで、しかも、安倍政権は、自身がコロナ危機への対応で右往左往しているその真っただ中であるにもかかわらず、唐突に国会審議にかけ、強行採決を目論んだのです。
この法案について安倍政権を擁護する意見もありますが、およそ中立公正な視点からの意見とはいえませんし、大局観を欠くものであることは明らかです。
何よりも、検察官は、裁判官と同様、国家公務員であることに変わりがないにもかかわらず、なぜ他の国家公務員と同じ扱いがなされていないのかという視点が肝心なことなのです。
検察庁法が、裁判所法と同様、国家公務員法とは別に成立し、いわゆる一般法と特別法の関係にあるのは、検察が司法の一翼を担う機関であるからにほかなりません。
かつてトマス・ジェファーソンも述べたとおり、権力が常に乱用され、国民の利益を大きく損ねることがある以上、権力の乱用を監視し、制裁を加える権限を司法が有することは、三権分立の鼎であり、司法は、立法、行政から独立した存在でなくてはなりません。
そのためには、検察の人事権が、時の政治権力に握られ、検察のトップが政治権力の言いなりになってしまうという仕組みに変えてしまうことは、三権分立の実質的崩壊といっても過言ではありません。
裁判所は、逮捕状を出すこともできますし、起訴された被告人を裁くことはできますが、それは捜査機関が令状を請求し、検察官が起訴をすることが前提であり、裁判所自体は受け身の組織なのです。
ということは、検察が、政治権力の言いなりになって、重大な汚職や公職選挙法違反などを摘発せず、起訴もしないということであれば、裁判所の出番はなく、権力者はやりたい放題になってしまいます。
安倍政権が、ここまで露骨なえこひいき人事を強行し、このタイミングで法改正にまで踏み込んだことがいかに危険なことは明々白々です。
この点、検察の独善、横暴や、いわゆる人質司法を問題にし、安倍政権側のやり方を擁護する意見もありますが、それは問題の本質を理解しないか、意図的に論点をすり替えようとするもので、明らかに間違っています。
現在の検察実務にいろいろと問題があることは、刑事事件を扱っている私たち弁護士が常々感じていることでもありますし、事務所のホームページなどで取り上げたこともありますが、検察が政治権力と一線を画することを人事権の面で制度的に保障することとは別の問題であり、別の方法で解決すべきことだからです。
たとえば、取り調べの可視化や弁護士の立ち会いを認めるなど、自白強要を抑制する方法はいくらでもありますし、人質司法といわれる身柄拘束のあり方についても、特に裁判所の実務を見直すことで変えて行くことは可能ですし、そうあるべきです。
民主党政権時代に、検察側は取り調べの可視化に抵抗していますが、検察の独善、横暴による人権侵害を防ぐための制度については、国会できちんと議論を尽くして進めて行けばよいのです。
しかし、今回の検察庁法改正は、まったく問題性が異なります。
時の政治権力の言いなりになるような検察がいかに危険なことか、それを実現しようとした、腐敗した安倍政権の目論見が如何に亡国的な愚行であるかは明らかです。
ただ、それに対して多くの国民が声を上げ、ひとまずということではありますが、この亡国的愚行を阻止できたことは本当に意味のあることだと思います。
関連しますが、この問題で、小泉今日子さん、浅野忠信さんら多くの芸能人の方々が声を上げたことを批判する人もいますが、とんでもないことです。
一人一人の国民が、政府の横暴に対して声を上げることは当然の権利ですが、芸能人の方々に対してとても失礼な批判であるとも思います。
実際、芸能界に身を置かれる人たちは、テレビを含むマスコミ、スポンサー、芸能プロダクション、広告代理店などの力関係に翻弄され、芸能プロダクションとの契約関係でも不利な立場に置かれる等、いろいろな意味で世の中の不合理、不公正と向き合わざるを得なくなることが多いはずであり、それゆえ、社会の仕組みや政治のあり方について関心を強く持つようになる比率は他の領域に属する方よりも必然的に高くなってしかるべきだからです。
また、その一方、芸能人が時の政府の方針に反対するような政治的意見を述べるということは、テレビ、スポンサー、芸能プロダクション、広告代理店などの不興を買う危険があり、また人気商売でもあるため、視聴者からの心無いバッシングを受ける危険もあるわけで(最近は特にインターネットでの匿名のバッシングがエスカレートするという恐ろしさもあります)、下手をすると、あっという間に仕事や居場所を失いかねないリスクと背中合わせなわけですから、種苗法改正に疑義を唱えた柴咲コウさんや、芸能人の人権、芸能文化を守るために声明を出された西田敏行さんらも含め、今回のコロナ危機以降に、芸能人の人たちが公的に声を上げるということは、本当に勇気の要ることだと思います。
ですので、今回の芸能人の方々の勇気ある行動に対しては、まず心より敬意を払うべきだと思いますし、仮に個々の意見については違った考えを持っておられるとしても、私たち視聴者は、声を上げた芸能人の方々が、今後居場所を失うことがないよう、しっかり応援してあげなければいけないと強く思うのです。
最後に、今回、いったんは強行裁決を断念しましたが、安倍政権は、検察官の人事権を牛耳るための法案成立をあきらめていないようです。
しかし、国民の権利を守る最後の砦である司法の崩壊を招くことが確実な悪法の制定を決して許してはいけません。
あと、そもそも、定年延長ができないのに、定年延長の閣議決定をしてしまったくらいですから、より巧妙な形で実質的に検察の人事に手を突っ込んで来ることも十分にあり得ることです。
ですので、そうした脱法的な手法で司法を骨抜きにしようという企みについても、引き続き監視し、声を上げなくてはいけないと思います。
長くなりましたので、種苗法の改悪の問題はPART2で取り上げます。